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収蔵標本解説


 第40号(2012年 3月1日発行)

『標本館でのアノーテーション』

標本館運営委員  一宮 慎吾
札幌医科大学保健医療学部看護学科・基礎・臨床医学講座教授

 医学の進歩はほんとに目覚ましいです。以前はヒトゲノムの解明などこれから先どれくらいかかるのかと思われていたのが、程なくあっという間に終わってしまいました。その後ヒトゲノム配列は皮肉なことにマウスなどの研究用動物の遺伝子配列を決めるリファレンスにもなって、多種のバイオ研究リソースが完備するようになりました。一方でnon-coding RNAやDNA修飾による遺伝情報の機能制御研究の展開は目をみはるばかりで、オートファジーやインフラマソームなど生命現象の新たなメカニズムも次々と見出されてきました。このようにこれまでにない切り口で生命科学が急速に進んでいることに異論の余地はなく、着実に疾病研究のインフラは整ってきています。
ところでいつの時代にあっても医学研究を正しく進めるために欠かせないのは研究事象の意義付け、すなわちアノーテーション(annotation)です。アノーテーションは元来、「標本に標識する、コメントを付す」という意味で用いられています。医学研究では「正常あるいは疾病形成における意義付け」にように用いられます。疾病を様々な角度から捉え病態形成のメカニズムを明確にしてさらに応用することを試みるわけですけども、ともすれば還元的になりがちな現在の研究ではとりわけアノーテーションの作業が大変重要な位置を占めます。病理学の立場からは、実際に目にする病変のマクロ像やミクロ像を通じて病態を概観します。いろんなデータベースを参照しながら研究結果の意義を解釈して病態と関連(アノーテーション)させるのですが、それが本質的な事象かどうか思い悩む日々が続きます。ときには道筋すら浮かばずにほっておくこと、投げ出したくなることもあります。昔ですとこのようなときは、ちょっと滝にでも打たれてこい、と冗談を言って激励してくれた先生もおりました。
さて、ここで病理解剖のある臓器をご紹介します。それはヒト免疫不全ウイルス(HIV)感染症により亡くなられた患者さんの剖検肺です(図1)。


図1 HIV剖検肺の実体顕微鏡像

 HIVはCD4分子を受容体として免疫細胞に侵入するウイルスで、主にCD4陽性ヘルパーT細胞の機能を障害します。ヘルパーT細胞は免疫炎症のコントロールを担う重要なリンパ球であるため、その障害により免疫不全に陥り感染症などが発生します。易感染性に加えてHIV病変の中には間質性肺炎が知られており、この剖検肺には今日の慢性間質性肺炎(CIP)あるいは非特異的間質性肺炎(NSIP)と呼ばれる肺病変が認められます(図2)。


図2 HIV剖検肺の病理組織像

 目立った肺感染症がなかったこともあって、肺の間質性変化とCD4陽性ヘルパーT細胞が減じることとの関連性については、剖検当時はよくわかりませんでした。現在ではヘルパーT細胞は炎症環境の状態によって種々のエフェクターヘルパーT細胞に機能分化することが知られ、数的にあるいは質的にエフェクターヘルパーT細胞が損なわれるとこのような間質の線維化や肺胞の破綻が誘導されると考えられます。HIV感染に関連したこのような間質性肺炎のメカニズムは今でも全容解明には至っていないのですが、ヘルパーT細胞はTh1細胞やTh2細胞、Treg細胞などといった機能的に異なるサブセットの集団として働いており、そのバランスの破綻を背景としたいくつかのシナリオが提唱されていています。またHIV感染症の肺病変以外にも線維性病変が伴う病態は多くあり、その一つにいわゆる慢性炎症があります。炎症遷延化に伴う線維化は種々の原因が考えられていますが、重要な臓器器官であるほど大きな影響を及ぼします。間質性肺炎に限らず、肝硬変症やその他の線維性病変の形成にもエフェクターヘルパーT細胞の機能異常が関連していることが示唆されています。恐らく炎症のプライミングや活性化のステップと関係していて、このような剖検組織からヒントを得て線維化の背景にある共通のメカニズムが見出されるかもしれません。HIVは最初の報告から30年以上が経過し、幸いなことに多剤併用療法により長期生存が可能になりました。こうした剖検標本は貴重なものとなって、今もなお様々なことを伝え、そして教えてくれます。
今年で40周年を迎える札幌医科大学標本館には4万点にものぼる数多くの資料があり、貴重な症例がたくさん展示されています。標本館では正常(order)と疾病(disorder)を比較でき、また過去から現在までの医学史、北海道ならではの医学的資料も満載です。初めての方はもちろん、しばらく訪れていない方も是非是非もう一度足をお運びください。きっと新たな発見があるはずです。そして最近、将来の研究医不足が論じられる機会が増えてきました。研究医には組織、臓器、そしてからだを見つめ、ハイゼンベルクのようにはゆきませんけども部分と全体を俯瞰しながら、病気と向き合う姿勢が求められます。持っているたくさんの引き出しから事象のアノーテーションを行って、どんどんチャレンジし、患者さんのために新しい道を切り開いて下さい。周りから信頼されるリサーチマインドをもった人材が一人でも多く本学から巣立つことを願い、不惑の標本館はこれからも歩み続けます。

 


 

 

 

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