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収蔵標本解説


 第41号(2013年 3月1日発行)

『あるがままの姿を観ること』

標本館運営委員  藤宮 峯子
札幌医科大学医学部 解剖学第二講座教授

 現在、わが国においても諸外国でも、「解剖学」という講座名を残している医科大学は極めて少なく、「分子生物学」や「細胞生物学」という名称に替わっています。「解剖学」とは、肉眼解剖学・組織学・人体発生学で構成され、人体の構造、つまり「かたち」を研究する学問です。生理学や生化学が人体の「しくみ」を研究する学問であるのと対照的です。
 そもそも私が解剖学を志したきっかけは、学生時代に病理学実習で見たヘマトキシリンーエオジン染色標本の美しさに感動したことにあります。顕微鏡の下に繰り広げられる細胞の「顔」はじつに多種多様で、核は紫、細胞質はピンク、しかもそれらの色の濃淡が微妙に変化し、まるで万華鏡を覗いた時のように興奮しながら顕微鏡を飽きずに覗いていました。病理組織標本で最も大切な事は、がんと正常細胞の区別をつけることですが、たいていの場合すぐ見分けがつきます。それは、がん細胞が「醜い顔」をしているからです。その後、がん研究がもっぱら分子生物学的に行われるようになり、遺伝子発現の異常がつぎつぎに報告されましたが、細胞そのものを見て「醜い! いかにもがん細胞だ!」と見抜く感覚ほど明確なものはないように思うのです。
 大学院生の時は、電子顕微鏡で神経細胞や消化管の細胞を観察しました。光学顕微鏡はせいぜい400倍の倍率ですが、電子顕微鏡は1万倍の世界です。1 mmの100分の1くらいの大きさの細胞一個が顕微鏡の視野一杯に見えるのです。これはモノトーンの世界ですが、細胞質には動力源であるミトコンドリアや蛋白質合成の場である細胞小器官がひしめいており、隣の細胞と互いに支え合いながら役割を果たしている姿に、生命の根源のパワーを感じました。
 大学院を卒業してから25年がたちます。世の中はゲノムやポストゲノムの時代になり、分子生物学や遺伝子工学の名のもとに多額の研究費を投じて医学研究が行われる時代になりました。もはや光学顕微鏡はほこりをかぶったまま、研究室の隅に追いやられ、電子顕微鏡に至っては試料作成の技術さえ葬り去られようとしています。その代わり、細胞をすり潰して遺伝子や蛋白質の発現を調べたり、身体から取り出した細胞をバラバラにして培養皿に撒いて調べることこそが最先端の医学研究であると皆が信じているのです。しかし、果たしてそれで本当に病気の原因がわかり疾患が治るのでしょうか? 残念ながら、この2-30年の医学研究の結果、がんがこの世から消えたわけでもなく、生活習慣病や認知症やうつ病などはむしろ増加の一途を辿っています。国民の医療費は膨れあがる一方で、医学研究に膨大な予算が注ぎ込まれた割には、期待したほどの成果が上がっていないというのが現状のようです。結局、医学研究のあり方を根本的に見直す時期が来ているのではないでしょうか。
 私は、臓器に備わった幹細胞を活性化して、種々の病気を治療する再生医療の研究をしています。10年以上前から、遺伝子工学や分子生物学的な手法を駆使して研究してきましたが、最近あることがきっかけで研究の手法を大きく変えることにしました。病気で壊れた細胞や治療で再生してくる細胞を電顕で克明に観察し始めたのです。30年前に書かれた教科書を参考にしながら、細胞が臓器に納まった状態で、「あるがままの姿」を来る日も来る日も観察しつづけています。この4ヶ月で3000枚くらいの電顕写真を撮影し、写し出された細胞の姿かたちに秘められた生命の本質を考察しています。遺伝子解析や生化学データの分析に慣れ親しんだスタッフは、喜々として電顕室に通う私を奇異な目で見ているようです。「組織の一部を大写しにし、しかも固定した細胞の静止像を見て、病気のメカニズムなどわかるはずないよ。これではインパクトファクターの高いジャーナルには載らないよな」と考えているらしいことがひしひし伝わって来ます。しかし私は、「生命とはもともと臓器が身体の中に過不足なく収まり、細胞と細胞がお互いの関係性の中で役割を営むもの。それを身体の外に取りだして、すり潰したりバラバラにしたりして働きがわかるはずがない。」と考えます。しかし、あるがままの姿を見ると言っても、ただ漫然と見るのではなく、真剣に生命の本質を見極める目をもって観ないと本質は見えてこないのです。生命の大いなる神秘に謙虚に向き合い、病気の原因を突き止めたあかつきには必ず新しい医療を提供し人類に貢献するという、固い決意をもって臨まないと生命の本質は見えてこないのです。  


図1. 糖尿病で異常をきたした骨髄細胞(マウス)。
死細胞のヘドロの海に生き残った造血細胞が浮かぶ。8000倍に拡大。


 今、本学の標本館には多くの「生命の姿」が納められています。これらを真摯な目で観ることで、自分が生きてこの世に存在することの意義や、どのように社会に貢献出来るかを真剣に考えるきっかけになれば素晴らしいと思います。

 


 

 

 

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