1.沿革(教室の設立、歴史、変遷など)

札幌医科大学(以下、札幌医大)は、昭和25年2月にわが国の新制医科大学の第1号として 認可されたが、その母体となったのは、北海道立女子医学専門学校(昭和20年4月開設 、昭和26年3月廃校)である。

女子医専時代は、教授渡邊左武郎だけによって講義が行われていたが、 教授は教育の傍ら医科大学昇格に備え、解剖体の収集と組織学標本作成などに 没頭した。大学創設とともに直ちに実習が開始されたが、このことが教育に 全く支障を来さない貢献となったのである。

大学創設とともに、解剖学の組織は2教授をおく解剖学教室として発足したが、 昭和39年7月に講座制がしかれ、「解剖学第1」と「解剖学第2」の2講座が 設けられた。したがって本稿では、以下にまず解剖学教室時代の人事、 教育と研究等について概歴を記し、その後に講座時代について述べることにする。

解剖学教室の創設にあたっては、女子医専教授であった渡邊左武郎と、 北海道大学名誉教授の山崎春雄が教授に任命されて教育と研究にあたった。 助教授と講師は欠員であったが、5名の助手が得られ、前述のように解剖体と 組織標本が用意されていたので、解剖学教育は順調に進められた。

研究面では岩田義明の眼球の研究に始まり、奈良俊則の卵巣の組織化学、 笠茂旭郎の骨盤計測、 西本敬二郎の犬の嗅球と続き、さらに頭部血管の比較解剖、北海道内学童の 身体発育調査が 行われた。同時に渡邊教授はアイヌ遺体の収集につとめ、アイヌ軟部人類学の一連の 研究が進められた。山崎教授は令息の山崎英雄と共にエゾサンショウウオの発生の 研究に専念し、立派な標本を多数作成したが、これらは昭和34年の階下からの 出火により惜しくも焼失した

教員の主な異動としては、昭和27年に中根文雄(現北海道大学名誉教授)が助手と なり、ネコの頭部動脈の研究に従事していたが、昭和31年に北大講師として 転出した。昭和30年には本学第1期の卒業生が3名、翌31年には第2期生の 3名が助手として入室し、活発な研究が行われるようになった。研究生も多数入学し、 人体の軟部解剖について多数の業績が得られた時代である。昭和31年に大学院が 認可され、松野正彦助教授(のち北海道大学教授)、宮崎雄二講師が発令された。

昭和32年4月、山崎教授は解剖学会で上京のおり、軽い脳出血でたおれ、 秋には再び教壇に立ったが、翌33年3月に大学を退職、昭和36年10月21日に 逝去された。

昭和33年7月、第63回日本解剖学会総会が札幌医大解剖学教室主催で開催され、 多数の参加者を迎えたが、渡邊教授以下一同の努力で好評のうちに会を終了させる ことができた。

昭和34年1月、山崎教授の後任として千葉大学助教授三橋公平が赴任し、同年4月、 東京大学人類学教室から山口敏が講師に発令された。三橋は山口と共に、 北海道先史時代人骨の発掘調査を各地で行って、それらの起源論の確立に努めた。 昭和33年、宮崎講師は脳神経外科に転出し、山崎が講師に昇格、ついで35年に 高橋杏三が講師に発令された。そののち山崎は生物学教室助教授に配置換えとなり、 昭和57年に教授、平成元年に定年退職した。昭和38年10月、高橋は電子顕微鏡学研究の ため、広島大学医学部の濱清教授のもとに内地留学し、40年3月に帰学した。 これにより、教室の電顕研究施設が立派に整った。

昭和39年7月、大学創設以来の1教室2教授制は廃止され、解剖学教室は 解剖学第1講座(教授:渡邊左武郎)と解剖学第2講座(教授:三橋公平)に編成替えされた。

2.教育、研究の推移、特色、将来への展望

昭和39年7月1日に本講座が独立した当時の教員は、教授渡邊左武郎、講師高橋杏三、 助手村瀬省二、下出隆昭、三宅サキ子であった。当初はアイヌの軟部人類学に 関する研究も続行されたが、高橋が広島大学での研修を終えて帰学してからは、 電顕を用いた神経系の研究と共存するようになった。したがって、教育面で は組織学、神経解剖学及び内臓学の一部の講義と実習を担当するようになり、 現在に至っている。組織学実習については、約15年前からテレビモニター(6台)による 示説のほか、手書きの実習プリントを用いていたが、平成5年にコンピュータを用いた 「組織学実習の手引き」( B-5版29頁)を作製し、実際に実習に供されるスライドに ついての解説を学生に提供することになった。脳実習についても「実習指針」を 配布しているが、実習時間が短いため、今後の実習方法について検討中である。

研究面については主な人事に関連したもののみについて記述する。アイヌの生体に 関する研究では、毛髪(下出隆昭)、耳殻(仲川康夫)、手根骨の発育と成長(高玉英彦) 、上肢の 静脈系(富沢功)等がある。昭和41年に大学院生として入学した太田耕平は大脳皮質の 暗調神経細胞の成因について、また山本悌司は脳梁欠損、神経学の研究法を学んだのち 脳外科に転じた。昭和43年、高橋はCMBの給費を受けて米国ミネソタ大学の Richard L.Wood教授のもとに留学し、主としてハムスター小脳の微細構造について 研究すると共に、約1ケ月にわたって米国内研究施設の教育、研究について視察した。

昭和47年、日本人類学・民族学連合大会が渡邊教授を大会委員長として札幌医大で 開催され、好評であった。

解剖学教室は大学創設以来木造校舎の2階にあったが、昭和41年から改築計画に入った。 教育棟に関しては第1講座が組織学実習室の設計に当たり、研究室についても 高橋講師が構想を担当した。昭和45年に研究棟が完成し、46年には実習室が使用 された。この改築に際して特筆さるべきは、同時に標本館の新築移転がなされた ことである。開学以来の貴重な標本や収集された医療機器等は360$m^{2}$の新館に 移転し、学内利用者のほか、co-medical生徒らの見学者は年間約1500人に及んでい る。館の管理、運営については、主として解剖の2講座の努力によるところが大きい。

昭和50年、米国セントルイス大学で大学院(解剖学専攻)を終了した山本悌司が 講師として就任し、教室の研究は大きく転換することになった。山本は神経路追跡の ためのHRP法をもたらし、日本におけるこの分野の研究の先駆けの一人となった。 以後、里見肇助手ら教室員と共に主として脊髄神経の分析、臓器の自律神経支配について多くの 論文をBrain Res.、Neurosci. Lett.、Exp. Neurol.などに 発表した。当時、胸部外科より助手となった藤堂景茂が、ネコで開心術を行ない、HRPを A-V nodeとS-A node に注入した研究はユニークなものであった。

山本は昭和53年に金沢医大に転じ、55年に徳島大学から渡辺勇一が助教授として赴任した。 渡辺は下垂体の組織発生が専門で、8年間の在籍中に多数の論文を発表し、昭和63年に 新潟大学理学部へ転じた。これに先立ち、昭和58年に二宮孝文が佐賀医大より助手として 採用された。二宮は末梢神経節の発生を培養法で追究し、とくに後根神経節細胞の 偽単極化についての学位論文はProg.in Neurobiol.のeditorから総説執筆の依頼が くるほどの新知見であった。また、高橋と共同して初めて横隔神経核の微細構造に ついて発表したが、平成3年9月から1年半にわたり、スイス国ローザンヌ大学の Prof.B.Drozのもとに留学し、多大の成果をあげて帰国した。

平成元年4月、大阪大学の藤田尚男教授より辰巳治之を助教授として割愛していただき、 教室は研究面で新たな展開をみることとなった。辰巳は佐藤松治助手と共に各種臓器を 材料として、 Superoxide Dismutase(SOD)の分布の解明に力を注ぐとともに、ワークステーションを 駆使してコンピュータグラフィックスによる組織の解析法を開発し、北海道における 大学間コンピュータネットワークのリーダーとして、また、日本解剖学会の データベース委員として活躍している。さらに、中村正弘助手と共に、現在進行中の 札幌医大におけるネットワーク構築に当たっている。赴任以来、毎朝の45分間を 学生相手の本読みにあて、多数の学生が図書室に集まってくるのは驚きであり、 将来が楽しみである。

解剖学が2講座をもつ意味は大学として真剣に考えねばならぬことであろう。全体として 教育と研究に欠落を起こさぬような配慮が必要と思われる。現在のところ、 第1講座は組織学と神経学を主体とした教員組織と設備を整えており、この態勢は 今後も大きくは変化しないものと期待している。

3.人事(歴代教授など)

教室の沿革で述べたように、札幌医大では解剖学教室として発足した解剖学組織が のちに講座制をとるようになった。人事については沿革の項で若干触れているので、 ここでは歴代教授ほか追加的事項のみについて記しておく。

昭和25年の開学と共に赴任した教授山崎春雄は、明治43年東京帝国大学医学部卒業、 スイス国への留学ののち大正2年に熊本医学専門学校教授、同10年北海道帝国大学医学部 教授となった。医学部長2回、昭和23年定年退官し、北海道大学名誉教授。昭和33年札幌医科大学退職、36年10月に死去。

もう一人の初代教授であった渡邊左武郎は、札幌医科大学の設立に努力し、教室の創設にあたった。明治44年札幌市に生まれ、昭和10年北海道帝国大学医学部卒、同15年に北大付属医専教授となった。札幌医科大学教授となってからは常時数々の要職を歴任し、 学務部長をへて昭和45年2月に学長職務代理、47年2月に学長となって、55年の任期満了 まで重責を果たした。この間、日本学術会議会員をつとめ、日本人類学、民族学連合 大会、日本医史学会を主催した。現在は北海道開拓記念舘館長、平成6年に北海道 開発功労賞受賞。

教授三橋公平は大正10年千葉生まれ。昭和22年に千葉医科大学卒業。講師、助教授を 経て、昭和33年1月に札幌医科大学教授。道内古人骨の研究に没頭する傍ら学務部長、 図書館長などを歴任し、昭和○年に定年退職した。在任中から日本篤志会解剖献体協会 の運営に力を尽している。

教授高橋杏三は昭和4年札幌市生まれ。同30年に札幌医科大学卒業。35年講師となり、 1ケ年広島大学解剖学教室で、研修。同40年助教授となり、米国ミネソタ大学解剖学 教室に1ケ年留学した。昭和49年8月、解剖学第1講座教授となる。図書館長2ケ年、 副学長4ケ年を経て平成7年定年退職予定。

解剖学第1講座関係のその他の主な人事では、大学院生として昭和37年に入学した中川喬が、のち眼科学に転じ、現在札幌医科大学眼科学教授となっている。昭和53年に退職した講師山本悌司は、金沢医大、東北大学をへて、平成元年に福島医大神経内科教授と なった。藤堂景茂は昭和53年に講師に昇任、旭川医大を経て、久留米市の聖マリヤ病院へ転じた。昭和57年に佐賀医大より助教授乗安整而が赴任し、翌年、新設された札幌医科大学衛生短期大学部教授となった。助手二宮孝文は平成6年に講師に昇任。