目次〜アンケート結果〜

・寮で印象に残っているもの、またそのエピソード
・寮母さんについて  
 
・寮食の好き嫌い、思い出
・寮生時代よく行った店
    
・次世代の寮生に贈るメッセージ

寮で印象に残っているもの、またそのエピソード 

・ 寮祭はあったように思うけど余り印象に残っていない。やはり入寮したときの歓迎コンパが印象的。大きな夜間で直接燗をしてどんぶりや湯のみ茶碗で酒を飲んだ。女性も入寮していたのでびっくりした。(22期 男性)

・ 金のナイ時代、寮のコンパ料理が懐かしい。(16期 男性)

・ 寮祭において元学長渡辺教授を招待し、その頭上にて北大ケイテキ寮時代のボート部で覚えた丼廻しを披露、びっくりさせた。みな勉強家であったが、豪快な連中も多かった。
(6期 男性)

・ 学部の学生と、新入生との組み合わせにしていただいたので(2人部屋)とても今思うと生活がスムーズで(なれぬ医大生活、学ぶ姿勢、リラックスなど)良かったです。異学年のふれあいはまた格別でした。試験のときは同学年の寮内外の人が集まって、必死になってみなで勉強しました。ディスカッションするということが理解を深める近道だったと思います。(19期 女性)

・ 単に空腹。20時から開放される残飯を期待していた。(12期 男性)

・ 北大農学部農場から家畜飼料用カボチャを盗ってきて皆で食べた。美味しくはなかった。
(12期 男性)

・ 寮祭時に、ペインティング(または鯉の池に集団で飛び込み新聞に載り批判されたこと)寮長だったので謝罪済み。(30期 男性)

・ 新入生歓迎会でダルマストーブ上のやかんで燗をしたこと。酒を強制的に飲まされたこと。それ以来酒をおいしいとは思えなくなりました。(16期 男性)

・ 13期の先輩3人が仲良くして暮らしていたある部屋で解剖実習の試験が迫り、ライヘの上肢をはずして、風呂敷に包んで持ちかえり勉強にて徹夜をしたこと。藻岩山の山開きには夜中に出発して登ったこと。石炭運びでぎっくり腰にやられたこと。煙突掃除がとても大変な仕事だったこと。ストーブは石炭で先に部屋に帰ったものがたきつけた。これがとても辛かった。私のルームメイトの女子学生は骨学の試験の前の一日頭蓋骨をやはり風呂敷に包んで持ち出して机の上に置き猛勉強していて、当時進学過程年になったばかりの私は恐ろしくて部屋から逃げ出しました。西線の電車が雪で不通になり、期末試験の早朝寮生皆、雪道を歩いて大学まで行ったこと。(14期 女性)

・ 寮祭でガイコツパレードなどを始めた。屋根の雪からのもれなど大変だった。(水漏れ?)石油の購入など苦労も多かった。(26期 男性)

・ 一人暮しをしたかったが、経済的にそれもかなわず、ずいぶんとわがままな性格が災いして友人達に迷惑をかけっぱなしであったように思う。それでも同期で寮生は沢山いたが、6年間ずっと住んでいて留年することなく6年で無事に卒業し、国試に一回で合格したのは自分ともう一人だけだったように思う。(27期 男性)

・ 寮祭。学生運動の名残がまだ残っていて「寮の自治」を守るのに大変だった。まったくノンポリだった新入生だったので喧喧諤諤の寮生大会にびっくりした。(26期 女性)

・寮から、定山渓まで歩行遠足をしたことが楽しい思い出です。(19期 男性)

・ 昭和48年4月入学したばかりのころ。先輩が部屋に来て「この中に麻雀の出来るやつはいるか?」といわれた。私はのこのことついていって、仲間に入れてもらったが、いきなり別の先輩に大三元を振り込み大負け。もらったばかりの奨学金から15000円も払う羽目になった。その頃の寮費は2食月で10000円だった。とても痛い歓迎だった。また、ある同級生はいつもベッドの中にいる人で「寝たきり学生」と呼ばれていた。結局8年間寮にいたはずだ。(27期 男性)

・ 学生運動の真っ只中の時期だったので親しい人とぜんぜん没交渉の人達にわかれてました。その分親しい人達とは仲良く、数人の先輩達と白井小屋に行ってキャンプをしたことや、部屋にいろんな先輩同級生が遊びに来て、男女混じって酒を飲み交わし(サントリーレッドやハイニッカなど)夜更けまでいろんな話をしたことがとても懐かしい思い出です。(22期 女性)

・ 寮祭で半裸にボディペインティングし、地下街に乱入したときTV局に取材されそうになった。その帰り、大通りでナンパしたが、敗北した。(38期 男性)

・寮の先輩達がよく勉強していたのが印象的だった。(8期 男性)

・ 私が一年のとき寮祭が復活したと思うがそのとき、望嶽寮の命名、看板の除幕式をやったと思います。(初代の看板は学園扮装のあおりで壊されてましたが)命名者はそのときの6年生だったと思います。「高い山を望む」ではなく、「高い山より望む」という意味なのですがこれは伝わっているのでしょうか。(26期 男性)

・寮祭、花見(中庭で)など。旧寮舎を寮生自ら取り壊したこと。(38期 男性)

・ 定期試験の前日、よって突然部屋に入ってきた先輩が僕の上に馬乗りになり口頭試問を始めた。女の子に振られるたびビールを買い込んであまり飲めないのに一人で飲みまくる同級生。(45期 男性)

・ 平成3年12月に旧望嶽寮から現在の望嶽寮へと変わったこと。旧寮の制度をいかに新寮に引き継げるか後輩と共に頑張ったこと。(39期 男性)

・寮祭の時に大通り公園の噴水に飛び込んで新聞でしかられたこと。(26期 男性)

・ 寮祭でしょうか。パレードが終わってから(今はありませんが)斜め向かいのお風呂屋さんに行ってみんなできれいにしたことを憶えています。古尾矢マサトが来てロケをしたことなど。(36期 男性)

・ 2期の連中は麻雀インチキOKでやっていたので1期の人は彼らと卓を囲まなかった。
(1期 男性)

・ どこかの建物を壊した廃材で炊きつけ作りをし冬には石炭の配給があり、多分1週間分づつ割り当てられたと思います。(ルンペンストーブでした)(11期 女性)

・ 第一寮との野球対抗戦。入寮間もなく先輩に初めてのインスタントコーヒーをご馳走になったこと。(こんなに便利で美味しいものがあるんだと!!) (7期 男性)

・ 一期の先生方がそれぞれ個性が強く立派な人だった。(4期 男性)

・ ススキノのラーメン屋で熱いどんぶりに半分眠って顔を突っ込み熱いと叫んだ先輩がいた。寮祭でキャンプファイヤーで燃えすぎて消防隊が来た。先輩が消火管をぶっ壊して大騒ぎになったこと。(37期 男性)

・ 寮祭の時の焼き鳥がおいしかったこと。先輩で冬にジンギスカンの肉を大量に買い込んで雪の下に埋めて少しずつ食べていたこと。(22期 男性)

・ 東京から初めて北海道へ行ったので雪かきや煙突掃除が大変だった。第二寮はできたばかりでコンパなどしなかったと記憶してる。(3期 男性)

・ 望嶽寮祭で大通り公園でガイコツ踊りをやったこと。道立衛生短大いずみ寮と合コンをやったこと。(30期 男性)

・寮祭で踊った大通り4丁目でのガイコツ踊り。(30期 男性)

・ ある年の寮祭で,先輩と二人でギターの弾き語りをしようと練習を重ねていたが、本番の寮祭で皆に酒で酔ってしまい隅のほうでこっそり歌うことになってしまった。
(35期 男性)

・望嶽寮という寮名は昭和45年,斎藤寮長のときだったと思います。(23期 男性)

・先輩や友人と夜遅くまで語り合ったことが印象に残ってます。(24期 男性)

・ 入学式前,とりあえず入寮の飲み会をするからといわれついていったらいつのまにか空手部の勧誘会になっていたこと。真冬には,一階はいくらストーブをたいても暖かくならず,二階は床暖房か?というくらい暖かかったこと(灯油1・80〜90円)。渡り廊下に雪が積もっていたこと。(36期 男性)

・ 私たちの時代(1971−78)は学生が「政治的」な発言をすることが普通のことでした.したがって政治的セクトに色分けし対人関係が出来上がって行きました.今思えば、大変視野の狭い考え方であったと思います.しかしながら、自分の人生や職業人としての視点にこの時代の「討議」は大変役に立っていると思っています.自立した自己を探求した時代にはまだ他人に対する思いやりの心には不足していましたが、現在医師としての仕事の中で他者(患者)に対する共感的態度が異化に重要であるかを痛感しています.皆様も、共同生活の中で自分自身と他者に対する思いやりの心を求めてみてください。(25期 男性)

・ 寮の前庭に野菜を植えようということになり肥料として人糞を使うことになった.くみ上げようのひしゃくと肥桶がなかったが、近所の家に借りに行ったところ「もう使わないのであげます」との事でいただいた.住宅街のど真ん中で人糞を撒いたのでそのにおいのひどかったこと。先輩はくさいといって怒ったが収穫物は大変おいしかった.ひしゃくと桶はその後何処へ行ったのだろう。(15期 男性)

・大学の火事で第一寮より大学まで手伝いのため走ったこと。(12期 男性)

・第一寮は汚い寮であったが某先輩の空間だけはいつもきれいであった。(11期 男性)

・とある先輩が深夜に帰ってきは碁の相手をさせられました。(21期 男性)

・ 限られた予算の中で寮の食事を改善するために寮の花壇を畑に変えたことです.すげて私の発案で強引に実行に移しました.肥料は当時「汲み取り」方式だった自分たちの排泄物を柄杓で撒き散らしました.近所の苦情をかうこともないおおらかな時代でした.その後、golden week での畑仕事は後輩たちに受け継がれていったようです。看護学生との合コン、白井小屋の行事は今も懐かしく思い出します。(14期 男性)

・ 当時は狂ったように酒ばかり飲んでいて粗相も数知れず...少し反省している。旧寮で先輩が猫を飼っていたこと。(43期 男性)

・ 自分のことばかりで恐縮です。寮の会計係をしていて金庫から七千円の盗難に会い、貧乏学生の二人で弁償したのは痛かった.(ちなみに当時の寮費は一ヶ月二千円くらいだった)。寮食を摂らない人の夕食を狙って門限の12時に食堂で同じ目的の人と鉢合わせしたときはバツが悪かった。寮友と狸小路の行き付けの飲み屋で酒を飲みタクシー代がなかったので歩いて帰る途中11丁目の道路で彼が倒れ、通り掛りの自衛隊のジープで寮まで送られました.自衛隊、先輩方には感謝しています。(2期 男性)

・ 若いころのことで沢山ありますが元の寮生達が集まると自然に具体的に思い出すことでしょう。我々のころは奇数の期の学生はおとなしく(寮内で?)、学校生活は活発で偶数の期の寮生は元気よかった。(6期 男性)

・望嶽寮、という名をつけたころ寮長をやっていた.寮祭を行った。(23期 男性)

・友人との語らい、寮祭での行列。(33期 男性)

・ 当時は行事等など無かった。門限も午前0時翌日はいくら早く帰ってきても良い.(事実上門限無し)12名しかいない寮だったので大変家庭的だった。(8期 男性)

・ 毎年開寮記念日(月日不明)に学長、学生部長(教授)を招き夕食会が開かれたこと.卒業10周年時に寮を訪ねて在寮生に洗濯機購入等のため寸志を差し上げたことがある。第一寮が満員になって昭和28年頃より第二寮建設に運動を開始し大学側と何度も折衝を重ねた。(2期 男性)

・ 貧乏だったので寮の行事らしいものはほとんど無く、床が抜けそうだった食堂で行われたクリスマスのダンスパーティーが一番楽しかった思い出である。(6期 男性)

・ 麻雀は3−4期対抗戦(プライベート)で教えられた。囲碁も寮で教えられた。学生生活
  協同組合を3期の先生と創設した。大学食堂のカレーライスを寮生に昼の給食として半 
  値提供した(学生生協として)。皆が協力して貧しい学生生活を精一杯生きた実感が残っ 
  ている。(4期 男性)

・入寮時、電話も洗濯機も無かった。(5期 男性)

・ 厳寒の北海道での寮生活.20畳に3人くらいで1〜4期しかいなかった。部屋数は10くらい.冬は石炭が豊富でストーブを真ん中に置き、各角に机を置き勉強した.ある夜,間切りの屏風(特製)の上から煙が入ってきてきな臭い.「何かきな臭くないか?」(私)「臭いな」(友人)屏風を開くと,友人が後ろ向きにストーブの側におり,背中(どてら)が燃えている「火事だ,おまえの背中が燃えているぞ。」彼も慌ててどてらの紐を解こうとするが解けず、座布団で背中をたたくが火は消えない.却って広がる.「あちちち」「横になれ」とっさに敷いてあった布団に彼を倒し布団で人間の寿司巻き。 友人はのんびりとした性格の好人物で今も交友を続けているがこれは今でも笑い話に良く出る。
(3期 男性)

・ ある夜,なぜか成田さんのお母様(超高齢)と私達の数人が話をした,その時のおばあちゃんが「女には3つの時代があるのだよ.1つは20代前半の半年くらいですべての女性がこの世主のとは思えなくらい美しく輝く.男として,その時を見逃したらいけないよ。40過ぎる頃.女の盛りが狂おしいまでに男を求める時があるのだよ.その時には,男としてどうするか、しっかりと自分を見つめるんだよ。最後のひとつは70才の頃。女が枯れるときの美しさが結晶になってくるんだよ。それは男と女を超えた人間の本当の美しさなんだよ。」とかたってくれました。(17期 男性)

               寮母さんについて               

・ 高橋さんと成田さんという人がいた。(もう一人、途中からいたが名前を覚えていない)二人ともものずごく優しい人だった高橋さんは夫婦で住んでいた。たまに叔父さんが酔って廊下を歩いていた。(22期 男性)

・ 当時、包括的に各自の健康チェックをしてもらっていたように思うのでそれはありがたかったです。当時、個人的に御抹茶をお呼ばれしたように記憶しています。(19期 女性)

・ 高橋さん。ご一家で玄関脇の住居に住み込み御世話して下さいました。同年くらいのお嬢さんとその小学生の弟さんがいらした。ほっぺがいつも赤くて黒い髪を後ろに丸くまとめいつも元気でよく笑う高橋さんのおばさんでした。
  富田さん。炊事場の向の部屋に一人で住みこまれ静かで優しくハスキーな声の方でした。
  亡くされた息子さんが私達と同年くらいとの事でかわいがってくれました。
  日本手ぬぐいを姉さんかぶりにして炊事場で高橋さんのおばさんとこまごまといつも働
  いていました。(14期 女性)

・ 広い、古い寮だったので、掃除とか大変だったと思いますが、いつもニコニコで大変助かりました。(26期 女性)

・ 僕の実家と同じ位の味付けで薄くも濃くも無くおいしかったです。どうもありがとうございました。(45期 男性)

・ 旧寮には寮母さんは3人働いており家族のようにお付き合いいただいた6年の最後の冬に寮母さんを含めて鍋パーティーをしたことがありとても楽しい冬休みを過ごしたこと。(39期 男性)

・ 成田さんといったか記憶がハッキリしない。「オバンコ」と呼んで親しんでいた。今何処ででどうしているのか、会いたい。(4期 男性)

・いつもお母さんお姉さん的存在でありがとうございます。(30期 男性)

・ いつもおいしい食事と弁当を作っていただき感謝しています.話し相手や時にはお酒にもお付き合いしてくれました。(15期 男性)

・ 若気の至りで恐縮しています.寮母さんが隠してある「漬物」を見つけ出しては酒のつまみにしてよく怒られました。(14期 男性)

・ 大谷さんお元気ですか? 餅つきの時の雑煮と、H7.12.31に作っていただいた鍋は最高でした。(43期 男性)

・ 安い寮費で食べ盛りの寮生の食事作りは大変だったと思います。(8期 男性)

・ 当時の寮母さんが病気のとき昔の寮生発起人より連絡がありみんなでお見舞いをっさしあげたら丁寧なお礼状が届いたことがあった。(2期 男性)

・ 初代寮母さん、故吉野さんには大変お世話になりました。(1期 男性)

・ 睦っちゃん、という小母さんがいた、白府さん、変肉のばば、というひともいた。
(5期 男性)

・ 「おばんこ」といって,娘さん(小学4年くらい)がおり、よく部屋に遊びに行った.面白く優しい人だった。(3期 男性)

             寮食の好き嫌い、思い出            

・ 一年間炊務にて、朝食(40円)夕食(60円)の献立を作成したこと。昭和44年の卒業まで麦入り飯でとうしたこと。(16期 男性)《現在も炊務係が献立作成》

・ 何しろ安い。朝食を食べず、それをお昼に食べたりしたら一日の食費はほんとにわずか。
(38期 男性)

・ 委員であったので、献立を作るのに苦労した。朝は納豆が多かった。週一回夜すき焼を献立した。(6期 男性)

・ 限られた費用で、一生懸命改善しようと(ワンパターンにならないように)思った時期がありました。当時学生も栄養価の計算、価格計算に参加したわけです。(19期 女性)

・ 好き嫌いを行っている場合ではないぞ。腹が喜ばない飯はなかった。(12期 男性)

・ 毎日、毎日、納豆、塩辛の朝食、学校卒業後は10年は納豆塩辛を食べたくなかったです。(16期 男性)

・ 炊務委員というのがあり、おばさん方と寮生の希望を調べて毎月献立表を作って食堂に張り出しました。私も炊務は何回かやり、買出しに行くOOマートで材料の値段などを調べに行きました。当時はアルミの本の形をした弁当箱を各自が用意して毎朝おばさんが詰めてくれました。(14期 女性)

・ 第一寮では弁当も作ってもらいました。大変助かったことを覚えています。
(19期 男性)

・ 同時は4時〜4時半頃に戸棚の中に一人分ずつご飯とおかずを分けて並べてありました。だからいつも冷たいご飯になってしまいましたが、不味いとは思いませんでした。夜12時過ぎると残っている分は誰が食べても構わなかったので食堂付近をうろうろしてて、ジャスト深夜12時に取り合ったりしてふざけてました。(22期 女性)

・ 夜食はよく食べさせてもらいました。(28期 女性)

・ 食べ物がなかった時代。何でもおいしかった。日本が貧しかった時代、現寮生は想像もつかない時代です。(5期 男性)

・ 鹿肉。(38期 男性)

・ 嫌いなものは酒茶漬け(お湯ではなく酒で ) (45期 男性)

・ 夜に残ったどんぶり飯を逆さにして(表面は乾燥しているので)食べたこと。
(26期 男性)

・ 朝はほとんどモヤシのおみそ汁でモヤシはすくい易いので早い人がみんなすくって、後は汁だけ。おかずもほとんど無い貧しい時代でした。(11期 女性)

・ そのころは(今も)貧乏な人の集まりだった。食べれればいい時代。10円のうどん玉を買ってきてフライパンに入れて温め醤油で味をつけて「うまい、うまい」と食べたあのころが懐かしい。(4期 男性)

・ なんといってもカレーライス(先輩がメニュー表に。時々週に2回あった。また、先輩がオーダーしたお酒(日本酒一合)。また、ある寮生の父親から送られてきたエゾ鹿でバーベキューをしたこと。いい思い出です。(37期 男性)

・ 日本は高度成長期に入っていたが,われわれ寮生は教会のねずみのようにハングリーだった。(11期 男性)

・ 朝食16円を18円に引き上げるのが大問題になった時代です。(9期 男性)

・ やはり4月の歓迎コンパ、3月の追い出しコンパの食事です。(15期 男性)

・ 好き;カレーライス、チャーハン。夜12時の残食を並んで待ったことが思い出されま
(21期 男性)

・ 看護学生との合コン、白井小屋の行事は今も懐かしく思い出します.その帰途、採取した山菜は寮生にとっては一週間分の食料でもありました。みそ汁の具は常に「モヤシ」で、医者になって10年以上モヤシが嫌でした。(14期 男性)

・ 特に好き嫌いはなかったように思います.何しろ、ゲルピン学生でしたので口に入るものは皆おいしかったと思います.前期の夕食の門限ねらいが一番の思い出です。
(2期 男性)

・ 寮食が体育館の横の食堂で安く食べられたことは有難かった。(6期 男性)

・ ほとんど「ルー」だけ(に感じた)カレー、なつかしい。モヤシだけのおみそ汁。
(23期 男性)

・ 午後9時過ぎても(だったと思う)も食べてない寮食は、自由に食べてもいいという不文律がありおじやにして食べたものです。(8期 男性)

・ 朝食は米飯、みそ汁、ほっけ、漬物が多かった.これを自分で昼の弁当箱に詰めた.後に昼は学内食堂で掛蕎麦になった。一ヶ月2000円以下の寮費なので、まあまあ仕方が無かった頃。(2期 男性)

・ 当時一食100円の食費だったので、やむを得ず納豆をたべられるようになったのは寮生活のおかげ.皆はいやがっていたが、天丼が好物だった。(6期 男性)

・ 学費の豊かな学生達は外食で貧しい寮食の栄養不足を補えたが、貧しいものは寮食が頼りだった.寮費値上げ、給食改善をスローガンに寮長に立候補したのだが現状維持派に敗れた。(4期 男性)

              寮生時代よく行った店             
・ 南22条の電車通りにあったラーメン「南葉園」他に寿司屋が2件あって奨学金が入ったときだけごくたまにいった。パチンコ屋が2軒あった(藻岩会館、石山会館)入学の頃はしょっちゅう行った。「あらまさ」親父が少し生意気だったが安くてうまかった。
(22期 男性)

・ 藻岩ラーメン(南20条石山通り)藻岩パチンコ(16期 男性)

・ 学大前電車停留所の手前の菓子屋へかりんとうをよく買いに行った。(狸小路の紫煙荘げ大勢でよく行った)(6期 男性)

・ 近所の五十円ラーメン店。店の名前は忘れた。汚い店だった。(11期 男性)

・ 1ヶ月に1〜2度行くのが楽しみだったのが両国寿司です。(16期 男性)

・ 第一寮には風呂がなかったのではじめて近くの銭湯に行きました。名前は忘れました。寮食の買出しはすぐとなりのOOマートとかいうお店でした。(マルトミだったかなぁ・・忘れました)(14期 女性)

・ グットマン、葦(27期 男性)

・ 新政支店.今には珍しい、鯨肉のステーキが好物でした。(22期 女性)

・ 葦、Jamaica(28期 女性)

・ とり政、七福湯、ミルチ(38期 男性)

・ ミルチ、葦、ラフ、魚屋一丁(45期 男性)

・ 三ちゃん食堂、あら政分店(26期 男性)

・ 二合半(ススキノ)、近所のラーメン屋、電車通りの風呂屋(7期 男性)

・ 南22条に学芸大学があったが正門前に屋台がありラーメン30円、オオモリ60円だった。(4期 男性)

・ 新あら政分店、まつだ、やわらぎ(37期 男性)

・ 寮に入ってくる曲がり角にあった店。(名前?)。狸小路のサッポロビール直営店
(5期 男性)

・ ススキノ:串カツ。現在二代目で息子さんが引き継いでいるが,料理の内容は現代風の居酒屋になり,モモヤビルの地階で営業している。(1期 男性)

・ 番屋,雑居房(30期 男性)

・ とり政,モダン屋佐吉(35期 男性)

・ 「よく行った」なんて言う店はない.南6条あたりに「青い果実」というスナックがあり,同期生がシェイカーを振っていた.招かれて1,2杯ご馳走になった。(11期 男性)

・ あら政、とり政,羊々亭(36期 男性)

・ あら政.当時は今分店がある南6条に本店があり寿司屋であった.夜によく酒を借りに行った.貧乏だったので寿司を食べる金がなく酒だけ借りた。もちろん、後日お返しした。(15期 男性)

・ 狸小路の喫茶店、ウィーン(12期 男性)

・ 自衛隊前のラーメン屋(名前忘れた) (21期 男性)

・ あら政マスター夫婦とは今も懇意にしていただいています。(14期 男性)

・ 海物語、セイコーマート、花よし、ミルチ。先日、花よしに行ったらセイコーマートの親父に会って酒をおごってもらった。(43期 男性)

・ 狸小路の居酒屋、寮友と最も少ない予算で飲んだときは二人で500円でした。
(2期 男性)

・ 南22条の電車通りに面していて通称「ユケヤ」(6期 男性)

・ 寮の周辺は静かな住宅会いで余り店はなかった.狸小路の`月(ちょんげつ)、三共食堂、ススキノの串カツ(8期 男性)

・ 第一寮の入り口にあった羽石商店(今でいう、コンビニみたいなもの) (2期 男性)

・ 狸小路の千歳鶴の直営店にたまに行った。銚子1,2本が懐かしい。(4期 男性)

・ 三平ラーメン(4期 男性)

・ 当時はラーメン屋が近所に2件くらいあった。一杯屋は近くになかった.ラーメン屋がやっていた。(5期 男性)

         次世代の寮生に贈るメッセージ         
・ 若いときに一時期だけでも「個室」でない部屋、建物で過ごすのはいいことです。
(22期 男性)

・ 卒業し、東京にやってきたが直接会わなくても病院のローテーションをするうちに、寮の先輩後輩の在籍していたことを聞いたり、ばったり会ったりする。こういう先生達には非常に親しみがある。(38期 男性)

・ 昭和30年入寮、同期生約10名。同窓会でも懇親にしても団結しており他の寮外同期生にくらべてまったく遠慮なしに好き放題ものをいえる。まったく、いまだに連中とはなかよしだ。いまでも「君」づけなしで呼び合う。(6期 男性)

・ 学部の学生と、新入生との組み合わせにしていただいたので(2人部屋)とても今思うと生活がスムーズで(なれぬ医大生活、学ぶ姿勢、リラックスなど)良かったです。異学年のふれあいはまた格別でした。試験のときは同学年の寮内外の人が集まって、必死になってみなで勉強しました。ディスカッションするということが理解を深める近道だったと思います。(19期 女性)

・ 食、住は心配ない。これが寮です。生きがいは自分で作るもの!他人を真似ることは敗北です。(12期 男性)

・ 6年間寮にいると10年近く他の学年の人と付き合えます。特に部活をしなかった小生にとっては、当時知り合った人々には今でも助けてもらってます。(16期 男性)

・ 青春の真っ只中で多くの可能性、発展性を秘めている。他人から見たら「あいつ馬鹿じゃないか」と思われるほどに何かに熱中して欲しい。(16期 男性)

・ なるべく負担をかけずに暮らせる「寮」を是非守って欲しいと思います。(26期 女性)

・ 総合大学となり保健医療学部も寮生となったため社会へ出る前に今後医療スタッフとなる人との交流ができるのでがんばってもらいたい。(39期 男性)

・ 自分の身内に対してならしないような投薬.注射.手術などをしない医師になってもらいたい。ゼニモウケ相手の患者になら飲ませるが自分の身内になら飲ませないような薬を使わないように!(10期 男性)

・ 次世代の寮生に送るメッセージなんて立派なものではない、小生の独り言。質実剛健。授業中に教室を出入りしてうるさいらしい。こんなことが記事に時に載る。みっともない。恥という言葉を知らないから救われない。(4期 男性)

・ 医学の勉強はもちろんですが、先輩、同期、後輩とよる遅くまで過ごしたことが将来の自己の形成に役立ちます。色々過ごしてみてください。(22期 男性)

・ 医学は病気を治すのではなくて患者の治癒力を助けるだけだ。つまり、心で癒すことが必要なのだ。寮生活により人の和を学んでください。(3期 男性)

・ 一般的に今の若い人たちは自分の殻に閉じこもり勝ちのように思える。テレビゲームで育ったせいか,パソコンを相手にして友人との対話が少ないように思われる。
(1期 男性)

・ 寮生で団結して戦えば,強大な権力にも打ち勝てる。(35期 男性)

・ 古い言葉だが,「同じ釜の飯を食う」ということは人の絆を強くする(11期 男性)

・ 若い時代に作った人脈は一生の宝です.乱読でも構わないので読書するべきです。 
(14期 男性)

・ 学生のうちに馬鹿なことをいっぱいやってください.仕事はまじめに(43期 男性)

・ 兄弟の少ない現代の青年達は特に寮生活をすすめます(6期 男性)

・ 若い時のエネルギーは使うとより増えると感じております。(8期 男性)

・ 何十年か経つとその時、その時のことがそれなりに懐かしくなると思います。
(4期 男性)

・ 医療機器が発達し機械が人間を診るようになったが,人間の心をわかるのは人間.人の考え方,生き方,自然など。情意の伸びるとき.寮生活で友人と語り合えるのはとても大切だと思う.良い機会です.人間を勉強してください。(3期 男性)

・ 私達の時代は只同然の寮費と寮生の自治と自由がごく自然に息づいていました。皆さんはいかがですか?(17期 男性)