目次

50周年   秋野学長インタビュー
      中添先生インタビュー
      工藤先生インタビュー
・50周年を迎えるにあたって座談会・・・京王プラザホテルにて

・学寮創成期あれこれ          1期 岩澤 武彦
・思い出きれぎれ             1期 豊口 昭夫
・寮生活の思いで             1期 森田福栄(森田産婦人科医院長)
・死線を越えて               3期 小山 虎信
・往事茫々                 5期 尾崎鉄也
・寮生活を振り返って           5期 金城 幸善 (第二寮出身)北中城 若松病院院長
・望嶽寮(旧)命名について       20期  斉藤 宣照
・青春の一コマ              23期 横串算敏
・私の青春時代の寮           26期 坂本和利(北海道勤医協病院)
・望嶽寮での思いで           33期 小林宣道
・寮生時代                34期 小野裕之
・「たらいを手に あら政へ行く」     34期 竹見敏彦
・「20センチ」               36期 石間 巧
・旧望嶽寮の思い出           40期 淺野 嘉一
・望嶽寮の思い出            42期 渡辺学
・「オモハナ」を覚えているか!     43期 山田 真吾

・寮生の皆さん五十周年記念おめでとうございます。
                       元寮母 倉本 良子
・札幌医科大学開学五十周年にあたって  
                   元寮母 斎藤 美津子

50周年 秋野学長インタビュー

――卒業されてからのことを教えてください。
僕は、昭和36年に医大を8期で卒業しました。卒業してから三井砂川の炭坑総合病院でインターンとして1年間働きました。それから医師国家試験を受けて医師となりました。インターン時代は給料が1か月2000円で、ほとんど無報酬同然でした。炭坑病院でしたから、非常に災害などが多く、第一線の医療というより診療の下働きという感じでした。それから進路をどうするかを考えました。本当は小児科を希望していたのですが、当時の南裏教授のところへ行って、大学院に入りたいと言ったら、「今年は希望者が2人いるが席は1つしかない。片方は基礎に行ってもらう」と言われました。そのもう1人というのは、北見の日石病院でインターンをしていた千葉先生でした。教授に「院に入るための試験はしないから、2人で話し合って決めてくれ」と言われまして、2人で医大の近くの喫茶店で相談し、ジャンケンをして決める事になりました。それで結局僕は負けてしまって、基礎に行くことになりました。教授のところへ行くと、「君は病理に行ってくれ」と言われたのですが、病理には同期で森先生や法医にいた森田先生が入ることが決定していて、2人とも学生時代はとても優秀だったので、一緒にやっていくのは大変だなあと思いました。それで私は生化に行きますと言って、生化に入ることになりました。今思うとそれが進路の分かれ道でしたね。小児では千葉先生が教授になり、病理では森先生、法医では森田先生、僕は生化のそれぞれ教授になっています。つまり、将来何になりたいか、本当に何科をやりたいと考えることは確かにあると思いますが、ほんのちょっとしたことで将来は決まってしまうということです。僕は生化に入って大学院に行き、その後オーベンとして片裏先生と折井先生につきました。生化にいたときは大野先生の下で研究し、院で学位論文ができたときには、小児に戻りました。そのとき片裏先生が定年前でいらして、大きな小児学会をやると言うので、人が足りず、僕は今の洞爺湖町の診療所長になりました。そこはいわゆる無医村地区でした。その診療所で1年間くらい診療を行ってからは、ずっと生化にいましたね。その後に大学紛争が起き、研究室は大変な事態になってしまいました。ちょうどそのころ、教授からアメリカに行かないかと言われまして、ヒューストンのライス大学に留学しました。帰国したあとは学生の教育や自分の研究に打ち込んできました。そして昭和57年に生化の教授となりました。教授を15年やって、平成5年から医学部長、その後平成10年の2月から学長をやっています。

───当時の学生寮についてお聞かせください。
僕は昭和32〜36年の4年間、寮にいました。当時学生寮は、今の中央図書館の近くにあった第一学生寮(約45人)と、南6西18にあった第二学生寮(12人)の二つがありました。第二寮は入学定員が40人から60人に増えるときに建てたものです。
僕は第二学生寮に入っていました。僕が学生の頃は医大には教養部がなく、2年間は北大で学び、それから4年間を医大で過ごしました。北大にいたときは恵迪寮にいまして、演劇部に入っていました。医大に来てからは、医大の寮は飯がうまいと第一に感じましたね。恵迪に比べるとみんなよく勉強して、酒の飲み方も紳士だったと思います。特に入った当時の4年生がよく勉強していました。その影響で第二学生寮は勉強する人が多かったと思います。テスト前は寮で勉強会をしていまして、昔も寮は試験勉強のたまり場でした。他にも、よく野球チームをつくって朝野球をしたりもしました。
部屋は、1年のときは6畳2人部屋でした。机とルンペンストーブを置いたら場所がなくて、机の下で寝ましたね。今の寮よりもススキノに近くて、よく酔った学生が寮に泊まっていきました。その頃1年間同じ部屋で過ごした先輩後輩が、今となっては僕にとってかけがえのない人になっています。よい人間関係のネットワークがつながっていると思います。先輩方には大変お世話になりました。室蘭市立病院長の木下先生や、産婦の工藤先生、保健医療学部の鬼原先生、薬理の
大鹿先生、沖縄の金城先生などです。
恵迪寮ではハングリー精神をつちかい、医大の生活では今の自分の大きな財産をつくったと思っています。実は僕はインターンの時も寮に住んでいましたから、寮生活以外の学生生活は考えられないですね。

────今の寮について思うこと、願うことはなんですか。
今の寮は平成2年の12月に建ったものです。これができる時に僕は学務課の副部長でした。前の寮が閉寮になる時に、脳外の田野先生が、新しい寮は1人部屋にしようと提案しました。しかし当時の学生が、そうすると寮がアパート化するからと言って、2人部屋で切瑳琢磨するという集団生活を提案したんです。確かに旧寮はひどい建物で、北海道の自治講習所だったところを使っていたものでした。現在の寮から初めて、始めから医大の建物です。僕たちにとって夢みたいな話でした。ただアパート化しないで集団生活を行っていってほしいとは思います。また、自治寮であるということで伝統を引き継いでいってほしいし、責任をもってほしい。今の学生は恵まれていて、よいところに住んでいると思います。やっぱり僕の時代の寮というものはコミュニケーションがよく、人と人のつながりがとても強かった。ああいう姿になってほしいと思います。
クラスと寮のつながりは一生のものですから、今の寮生にとって、寮生活は、人生の中でもかなり大きな意味を持つと思います。
医大の学生は900人で、寮の学生は50人。学生の約5%を学生寮に収容するのは全国から見てもそんなに少なくないし、これから女子寮を建てるとすると、北海道経済ではとうてい無理なので皆さん仲良くやっていってほしいと思います。今の寮に望む事は、とにかくコミュニケーションをとってほしいということですね。一生の財産になると思いますから。
 また、一気飲みなどの酒の飲み方を考え直してほしいです。寮の基本は、お互い紳士として扱うことだと思っています。それなり互いの人格を認めあってほしいですね。上級生から学ぶことができるということが寮のよいところだと思います。医者になってからも信頼関係をつくることができますから。(完)

――ありがとうございました。

中添先生インタビュー

A:旧寮のことについてお話を聞かせてください。
僕は1寮から2寮に移ったときの学生で、最初は第1寮に入ったのです。第1寮はたしか南19条西13丁目だったかな。僕は札医大の第3期生で昭和27年だった。1学年の定員がまだ40人でみんなお金のない時代だったからほとんど寮に入っていましたね。今は寮には学生の中でも一部の人たちだけのようだけど、僕の頃は1学年の中でも40人中10人はいました。僕は実は初めから寮に入っていたわけじゃない。あの頃は2年間一般教養を学んでから医学部に再受験して入るというのが普通で、僕も北大の教養部で2年間過ごしてから札幌医大に入りました。北大にいた頃はあの有名な恵迪寮に入っていまして、医大に入ってからは最初は下宿をして、寮には途中から入りました。1年生の9月だったと思います。そしてそれからは、入寮希望者が増えてきたものだから第1寮だけでは足りないということになり、当時、道庁の監視舎かなんかだった所を第2寮にしたわけです。そのとき、12月に第1寮に入りきれない学生が4人でて、僕はその中の1人だったわけなのですが、その4人は第2寮ができるまでの1月から3月までの間、学校に寝泊りしていました。今じゃ珍しいことだろうけどね。食事は病院の食堂ですませて、そのまま授業を受けに行っていました。そういうふうに3ヶ月過ごした後、やっと第2寮ができて、そこに移ったわけです。南7条西16丁目だったと思います。そこは本当に小さな寮で、定員が12名までしか入れなくて。6畳に2人で暮らしていました。
A:第2寮は寒かったのですか。
ちょうど暖房長の高田さんという方が、寮の食事を世話してくれていまして、そのおかげで石炭はいくらでも手に入りましたから、寒くはなかったです。ただし、自分たちで学校から石炭を運んで来なくてはならなかったですけど。第2寮は小さかったけど、その分みんな仲が良く、よくみんなで飲みに行ったりもしました。いつも一緒に行動していまして、今でもそのときの仲間とはつき合いがあります。先輩といえば、第2寮には僕より先輩は小松名誉教授しかいませんでした。その小松先生が寮長をやっていました。
A:行事などはあったのですか。今は餅つきや寮祭などがあるのですが。
別にこれといって、名前のついた行事はありませんでした。ただ近くの飲み屋にみんなで行ったりはしていました。ただ、寮では飲まなかったね。意外とみんなまじめでした。
A:食事やお風呂はどうでしたか?
食事はとてもおいしかったです。本当に。北大にいた頃は食料事情がとても悪く、食券がないと食べられないし、昼ごはんは小さなジャム1つだけとか、すいとんだけということもよくありました。それに比べたら、札医大に移ってからは幸せでした。毎日、白米を食べていましたから。
お風呂は、その頃は寮についていませんでしたから、銭湯に行っていました。当時は電車通り
に面した所に銭湯がありましたから。そこによくみんなで行っていましたね。しかし、今思えば、よくあんなボロボロな寮にいたなあと感心しますね。
A:最後に、寮生活で思い出に残っていることを教えてください。
思い出といえば、第2寮でまだテレビがない時代に、自分達で部品を買ってきて、オーディオを組み立て、食堂でみんなで聞いたりしたことですね。あと、僕は卒業して一度寮を出たのですが、大学院生としてまた戻ってきたときに、ちょうど寮に空きがあって、入っていいよということだったのでまた半年お世話になったことがあるんです。その時に現学長の秋野先生が1年生で同じ寮にいました。だから、戻ってきたその時に、若い学生たちと話をしたことが思い出として強く心に残っています。

――ありがとうございました。

工藤先生インタビュー

Q、先生の御経歴を教えて頂けますか?
私はすぐ大学院に入りまして、入ったのが昭和40年ですね。それで4年後の昭和44年に学位を取って、そしてその年の秋に女子医に採用されました。その後昭和49年に講師になり、更にその後、慈恵医大に入ったのですが、それはいつだったか・・・ちょっと忘れてしまいました(笑)。
昭和49年に講師、56年に助教授、そして平成3年に教授になりましたが、その間には、1度だけ道立江差病院に10ヵ月程出張した以外は大学にいましたから、私は比較的稀なタイプだったと思います。海外の留学では、1983年にフィンランドへ北方圏学術交流で研究員として行ったのと、1988年に文部省の在外研究員としてアメリカのジョージワシントン大学の病理学教室に留学していたことがありました。

Q、先生が寮にいらっしゃった当時の寮の様子などを教えてください。
寮はですね、南19条西17丁目に、昭和21年に女子医専の宿舎として借りたものにはじまり、それで実際に札医の寮ということでは、昭和24年に第一寮として始まりました。私が寮に入ったのは昭和33年で、私は最初、第一寮に入りました。その時の寮費というのは、たしか3000円位だった気がしますね。寮に入った当時、その他色々込みでも5000円位で生活をしていたという記憶があります。一つの部屋に3、4人という形で、冬は集中暖房にはなっていませんでしたから、各部屋に秋になると石炭が配られて『お前たちはこれで一冬生活しろ』といわれる訳です。ですから、それを上手に使って行かなくてはならないし、煙突掃除をしないとうまく燃えてくれなくなって、サボっているうちに部屋が煙だらけになってしまうのです。
寮はある意味で非常にアットホームな状態でした。上から下へのそれとなくの指導などもあったりしました。私達は苦学生ばかりでした。家から金を一切送ってもらわないで家庭教師などのアルバイトだけで生活をしている人もいました。私は2年程その第一寮にいて、そのあと今のこちらの第二寮に移りました。

Q、当時の行事や飲み会などはいかがでしたか?
寮の中で確かに新歓コンパなどはありましたね。ご馳走もほとんどでませんでしたけど。酒なんかも合成酒みたいなもので、良いお酒ではありませんでした。しかし今みたいに一気飲みとか、人に飲ませるとか、やたらめったに無茶なことは無かったですね。
寮に風呂がなかったものですから銭湯に行きました。それで風呂帰りにラーメン屋に入ってね、そこで熱燗を飲むんですね。その時によく酔っ払うように酒の中に南蛮を入れるんです。そうするとよく酔っ払うじゃないですか。今思えばひどい飲み方をしたものです(笑)。今でも思い出せますね。あと、日曜日などに藻岩山に登ったりするレクリエーションみたいなこともありました。先輩なども大勢いて、その当時の寮生と会ったりすると今でも思い出を語ったりします。
第二寮では秋野学長(1999年12月現在)もいましたが、第二寮は人が少なくて10人程度でした。秋野先生とは部屋は違ったけど、こじんまりとした寮でしたからね。それぞれの性格から生活まで全て分かるわけです。食堂では畳に座って食べていましたし、暖房は部屋ごとにストーブがありました。その時の寮母さんは佐藤さんといって1階の別の部屋に住んでいましたが、母子家庭で男の子が二人もいて大変だろうなとよく思いました。
私は演劇をやっていましたが、何を訴えて何をするかということを通して人間関係が出来ましたね。寮生で同じ演劇部に野中という奴がいまして、それと一緒の部屋でした。今は北の方で整形外科病院をやっていると思います。その野中と芝居作りのことで意見が合わずに喧嘩して、同じ部屋なのに口も聞かず、アホみたいに布団と布団の間にゴミを置いたりしましたね(笑)。その人は腎臓が悪いために1年遅れ、苦労していましたね。アパートか普通の下宿では接することの無い環境に身を置くことが出来ましたし、そういう意味で(寮生活は)重要でした。秋野学長との交流もそのころからずっと続いていますし、先輩でもあり兄貴のようでもあるという、寮だったからこその関係ですよね。

Q、これからの寮に思われるところがありましたらお聞かせ下さい。
一回、卒業生の追い出しコンパに行きましたけど、今はアパートみたいになっちゃっていますよね。二人部屋で。私のころは女子学生がほとんどいませんでした。それから今年(1999年)から保健医療学部生も入っていると聞きました。非常に多くの、また医学部以外の学生も入って来るとなると、昔のように家庭のようなというのはなかなか難しい面があるかもしれませんね。寮をあんなに大きくしても38人しかいないのですか。今はみんな裕福ですね。
これからは何らかの形で寮にしか出来ないコミュニケーションの場を作らないと、二人部屋のアパートメントに入っているだけということになりかねませんから。そうなって欲しくない、とそれだけはお願いしたいです。

ーーありがとうございました。

50周年を迎えるにあたって座談会・・・京王プラザホテルにて

現寮生:A(菊地、池尾、草深、久慈、細田、関島)   
  OB:B(井村春充先生、大田節朗先生、戸村卓爾先生、山本健三郎先生…いずれもOB1期)

A:今日はお忙しいなか、僕達現寮生のためにおこしいただいて、本当にありがとうございました。今日の食事会では、先生が過ごした当時の寮や学校の様子を教えていただきたいと思っています。よろしくお願いします。では、まず当時の寮生活についてお聞かせください。
B:寮生活ねー。ふーむ、昔の寮は今とは違って、木造だったので、冬なんぞ部屋のすきまから雪が入ってきよってから窓のすみっこにつもったりして、寒かったもんだ。
A:そうですかー、、昔は大変だったのですね。雪が部屋につもるだなんて-今では考えられないな。
B:そうだろうね。今の寮はさぞかし暖かかろう。君達は暖房に何をつかあっているのかね。
A:今はスチームを使っています。冬でも半そででいられるほど暖かいんですよ。そういえば、昔の暖房はなんだったのですか。
B:石炭さ
A:えっ。石炭は寮生が自分達で購入していたのですか。
B:いやいや、石炭は学校が支給してくれていたんだ。馬車で石炭が届けられて、わしらは自分の部屋まで重いのによく運んだものだ。そういえば、こんな話があったな。
B:何があったのですか
A:石炭は石炭やが馬車で運んでくるんだけど、十分に足りるはずの石炭が見る見る減っていくんだ。おかしいとおもうだろう。
A:どうしたんですか。
B:不信に思って石炭屋に聞いてみると自分達は正しい量を運んでいるんだというんだ。だから、石炭を計るときに寮生が立ち会ったら、なんといつもの2倍の量が正しかったんだ。当時は自由にものが買えず配給の時世で誰もがひもじい思いをしていたんだよ。学費も自分がアルバイトをして稼ぐやつも多かった。
A:やっぱり今と昔ではたくさんの違いがあるのですね。部屋は何人部屋だったんですか。今僕達は2人部屋なんですが。
B:僕らは1期生だったから最初は1人だったよ。でも後輩達がきて寮生が多くなるにつれて、2人部屋が増えていったんだ。
A:そうだったんですか。今の寮には1階に食堂があってそこに寮生が集まって飲み会をしたりおしゃべりをしたりしているのですけれども、当時はそのようなことはあったのですか。
B:そうだな、昔はよくなかのよい者同士で部屋に集まってマージャンしたり、飲んだりしていたものだ。
A:やっぱり、その頃も後輩が先輩に飲まされたりしたのですか。
B:うーん、そんなに強制的ではなかったが、飲むやつは飲んでいたよ。飲み会をする部屋はだいたい決まっていてその部屋には酒ビンがゴロゴロしておった。
A:へーえ、食事はどうしていたのですか。
B:朝と夜はまかないのおばさんが作ってくれて、昼は食券をもらって近くの店で食べ物と交換して食べていたんだ。寮食はなかなかおいしかったよ。
A:へえー。
B:でもな、さっきも言ったように当時はみんなひもじい毎日を送っていたから寮食の残りを狙っている寮生もいて、それを監視することが寮長の仕事でもあった。
A:生活レベルも今とは違いますね。
B:そうだなー。
A:・・・それでは最後に寮生活において辛かったことや不満、また反対に良かったと思うことがあったら聞かせてください。
B:つらかったことねー。特にないな。貧しいなかでもみんなで楽しく生活できたし、良かったことはやはり、人とのふれあいによって、人間関係の大切さを学ぶことができたっていうことかな。僕ももう長年生きてきたけど、人間関係というものは本当に大切なことだよ。
A:なるほど。
B:だから君達も勉強のことばかりではなく、人とのつながりを大切にして一度しかない大学生活をすばらしいものにしていってほしい。
A:はい。本日は色々なお話を聞かせてくださり、本当にありがとうございました。本日のお話してくださったことを忘れることなく、ぼくたちもこれから様々なことを学んでいきたいと思います。今日は誠にありがとうございました。

学寮創成期あれこれ       1期 岩澤 武彦

私の寮生活は、昭和26年雪融けの早春と記憶している。当時、学生寮は、藻岩山麓の市電終点に近くの静かな環境で勉学するのには好都合であった。しかし、学生寮の建物は、有り体にいえばいささか老朽化した倉庫と誤認され易いほど質素な佇まいだった。
そのころの世情は、終戦後まもなくで社会情勢が混沌としており、食糧を始めあらゆる生活物資が窮乏していて闇市が賑った暗い時代だった。ましてや学資金の調達は、さぞかし両親にとって大きな負担だったに違いない。
学寮生活の経緯は、下宿の関係で短期間寄留する予定であったのが入寮と同時に寮長に推される破目になった。そこで戸村卓爾君(一期生)と高村民雄君(二期生)に庶務、会計を分担して頂いた。在寮生は、大部分が旧制高校や北大予科出身者で自治学寮生活を十分体験してきた猛者各部屋にが犇しめいていた。寮生の休日は、勉学以外に出費の少ない山歩き、スキー、碁や麻雀などに熱中して結構楽しんでいた。反面、一部の寮生は家庭教師や封筒の宛名書きなどのアルバイトに精出すものもみかけた。寮主催のコンパには、教授連も招き、食堂は大宴会場に早変わり、安い焼酎やウイスキーが大量に振る舞われた。酔いすぎたの寮生は、無礼講にかこつけて大言壮語を吐き、挙句の果てにビーコンの逆恨みか教授を掴えて説法する強者には参った。宴半ばには、不甲斐なくも前後不覚に陥り討ち死にする寮生が続出した。当時出席の教授は、現在ほとんど他界されて日頃尊敬していた恩師に無礼をお詫びする機会を失った。
寮長の役目は、寮内の諸事万端の処理、学生補導課に建物の修理依頼を始め米、石炭などを幾らかでも多く配分されるよう世帯じみた交渉に日参した。みかねた大学側は、寮生が札幌郊外の薬草園予定地の開墾作業を手伝うならば報酬として馬鈴薯、人参や玉葱などの野菜類を現物支給するという好条件を提示した。この提案は、早速寮生会議に計り意見を聞くというより強引に協力させたというのが実情だった。寮生は、休日に大学のトラックで現地に赴きスコップや鍬などで慣れぬ開墾作業に汗を流した。その収穫物は、学生寮の食料不足の補いにしたが、当時の苦しかった生活状況が甦ってきて感慨ひとしおである。また燃料対策は、炭鉱と交渉して採炭作業を手伝い、その見返りに石炭を頂こうという安易な胸算用をしてみた。この稚拙な発想は、やがて私の下宿移転、退寮で実現しなかった。
母校札幌医大は、すでに創設以来半世紀が移ろい、その生いたちに変遷がみられたが、医学関係で各部門の優れた業績は国内外で高く評価され著しい進歩発展を続けている。
わが光輝ある学生寮は、幾多の有為な医師を育んできた母なる温床とでも称えられようか。もはや古稀を過ぎた私は、若く多感だった医学生時代を偲び、学寮生活で培われた燃え立つような青春の軌跡をひとり回想するとまことに苦笑を禁じえない。


思い出きれぎれ             1期 豊口 昭夫

 原則全寮制の旧制高校の寮生活は、500人余が弊衣破帽、女人禁制などストイシズムを基礎にして、バーバリズムや河合栄治郎に象徴される教養主義を掲げての生活で、ひどい貧乏暮らしの中にも戦後の我々の荒んだ心を育んだと思われる。
 大学の寮は、貧乏暮らしは同じながら実務的な交わりで、仲良しクラブといった雰囲気。女子医専の寮を下げ渡されて9月に始まった。部屋割はどうしたものだったろう。気の合った同士で何となく3人一室は、当時としては恵まれた方だった。
 子に大学生活を続けさせるのは、どこの親にしても経済的に大変だったのだから、子は比較的学校には良く通ったと思う。が、あまり勉強した記憶はない。
解剖実習後のフォルマリンの匂いと、寮の食堂の冷たい飯とが強い記憶として結びついている。おいしい食事についての思い出は殆どない。少しでも安くて良いものをと定期をもって毎日二条市場に買出しに行ったおばさん達も大変だったろうが、秋田から来た私には、道産米がぼろぼろで、冷や飯を暖めなおすのが北海道の習慣かと思った位だ。外食する余裕に乏しいから、部 屋で野菜や魚を買って来てのコンパは多かったろう。故郷の配給米を外食券に変えて送ってもらって、大学の近くの日糧パンで、コッペパンや豆パンを買える日は、朝の二食分の(はずの)飯を一度に食べられてハッピーだった。
 講義でこのテキストをと推薦されても、中々買えず、買った後はお金に不自由したので今月は歩いて通うことにしようかとなる。同期の光内君もつき合ってくれた。冬場南20条の寮を早く出て、第一講の直前に講堂に着くと、頭から湯気がポッポッと立っている。電車で来た級友がねぎらってくれるのが嬉しい。講義はあまり頭に入らなかったようだ。若さの衒気も手伝ってか
何か月かやったな。
 ある朝、炊事のババア(失礼)が煙突の煤をみそ汁に落したと大きな声でどなる声が聞えた。安い寮費で何とか学生さんに栄養をつけさせたいとゴマをすって入れたのにとおばさんは憤慨している。双方をなだめるのに苦心した記憶がある。ゴマだれみそ汁というのはその後食べた覚えはない。
ルンペンストーブを煙突から外して、外まで運んで灰を捨て、焚木、紙、石炭をセットするのが億劫だった。同室者が先に帰っているよう願いながら、暗い部屋の前につくとがっかりした。
 卒業試験前の冬休みは、帰省しても勉強する環境のない者達(?)が残り、数室にまとまって暮した。のんびり起きて一日ダベってしまうおそれがあるので、市立図書館(今の時計台)やCIE図書館へ出かけた。CIEの方では閲覧室でパンをかじっているとよく注意されたが、他に休憩室などなかった。
 朝、皆の起きる前にストーブをセットして出かけることにしたら、だんだん灰捨てが億劫でなくなった。いやなことは朝早くやっておけば良いと学んだ。
 書いてみると、断片的なことは次々と思い出されるが、いずれも結末がはっきり思い出せないので、この辺で。


寮生活の思いで       第1期 森田福栄(森田産婦人科医院長)

木造の古い歴史を思わせる建物の寮でした。お世辞にも住んでみたいという気持ちを起こさせる代物ではありませんでした。ただ先立つ物が選択肢を限定してしまっていたというのが、本音だったのです。
建物の半分は道庁の職員が住んでおられました。旧教育大学前から旧交通局まで電車で4年間も通いました。南6条からは北星の生徒が乗・下車しているのを横目で眺め、同室の者と酒の席で余り上品とは言えない品評会をし、不足しがちな酒の肴としていたものです。幼い青春の落書きです。大雪に見舞われて、休校となったことも数回あり、一夜に80〜90センチメートルの降雪で電車は止まり、陸の孤島並の経験をしたことがあります。
電車を降り、北に数分歩いて右折すると寮への道があったのですが、当時はもちろん舗装などはされておらず、一部畑を見ながら帰った記憶があります。その曲がり角に、生活品、食料品を売っていた店があり、よく買い物をしました。仕送りが届いて、懐が豊かなときには安価なブドウ酒、蜂、赤玉ポートワインを口にし、確実にその副作用である頭痛に悩まされました。
同期は当然ですが、寮生活の思いでとなると寮の会議でよく意見を出された方、一年上、下級生が現れてきます。記憶の濃さはかっての合同講義、ポリクリが一緒だったことに起因するのでしょう。今は、みなさん地区の医師会長、院長、部長、などをなされ、退職した方もおられます。
食料が今ほど豊富でなく、食い盛りだった寮生は食事を取る権利を放棄する9時にはぶんどり合戦を展開し、廊下は一時期競技場と化しました。
寮母さんにはずいぶんお世話になりました。時に寮母さんのお部屋でお茶、茶菓子をご馳走になりました。一人はハスキーの成田さん、もう一人は息子さんのいらした佐藤さんと記憶しています。退寮してから義理を欠き一度もお会いしていませんが、お元気でいらっしゃるでしょうか。
一度建物が変わってしまうと、訪れ難く自然と敷居が高くなってしまいます。寮生ご一同の一層のご活躍を祈念します。

死線を越えて     3期 小山 虎信

昭和26年2月札幌に初めて来る。ちらつく雪の中の幻想的な札幌駅やストール姿で歩くロマンチックな女性に魅せられ、青春の夢と希望に胸をふくらませて4月、2期として?学芸大学前の医大寮(寮長・太田節郎一期生)に入った。同室、芋川敏彦君。他大学を経ての入学で同級生より4歳位年上でした。クラスは40名位で小松作蔵君と学級委員に選ばれた。彼は私を”トラ、トラ”と呼び仲良くやった。
当時、大学にダンス部がなく学生部長(渡辺三武郎教授)に申し込み、同好会にしなさいと云われ看護学科の教室に会員募集に行ったのも楽しい思い出。
勉強も苦にならず委員長(委員4名)として全国医大委員長会に参加した事。看護学生と下駄履きで手稲山に登った事、上川郡の集団下痢発生究明の人体実験(6名)に参加した事、丁度円山公園で大学の運動会があり変装していった事等々、短期間でしたが私の生涯、一番楽しく充実した青春の時期、寮生活でした。
夏休みも8月初旬、帰寮。丁度その時、兄の苫小牧にいる知人の娘さん(女子高生)が学友と本を買いに来札、案内し帰途札幌駅で走り出す列車に乗ろうと手を滑らせ後ろから助けようと3人とも線路に落下、彼女は即死(後に知る)私は3日間人事不省(大腿骨骨折其の他)に落入り生死の境をさまよい教授を始め一、二期生、看護学生、皆様の献血・看護、励ましに助けられ死から脱出致しました。大野学長のお見舞いも忘れ得ません。国鉄病院→札医大→東京医歯大と入院療養し翌年3期生に復学しました。
 札幌駅を担架で出発する時、お見送りの一、二期生を始め多くの皆様のお姿は今も脳裏に浮かびます。有り難う御座いました。学生寮記念誌発刊をかり改めて御礼申し上げます。

 ”背中が火事だ”
 昭和28年冬、外はしんしんと雪の降る寒い夜9時頃だった。寮室は20畳に板の間の広さで三隅に机、真中にストーブを置きその間に布団を敷いた。同室は3期同級生の山田彰君と4期中島光男君(丁度留守?)。私は渡部登君(3期)に頂いた間仕切り屏風の内で勉強していた。山田君はもう布団を敷いてあり勉強していると思った。すると屏風の上の方から白煙の様なものが下におりてくる。何かなと思っていると次第に多くなり、何となくきな臭い。上を見ると天井に煙が沢山這っている。おや?と思い屏風をあけてみるとストーブの向こうに立って窓外を見ている山田君の背中がこげている。厚いドテラの為か気がつかない。”山田!! 背中が”と怒鳴ると同時に
ポッと背中に火がついた。彼は日頃伸気で一瞬何だか気がつかなかった様だが”背中が火事だ”と怒鳴ると”うわー”と慌ててはねまわる。火勢は却って強くなる。帯を解こうとするがきつかったか慌てている為かなかなかとれない。私もストーブの棒で叩くが消えない。これは大事になると咄嗟に敷いてあった布団に彼を押し倒し布団で包みこんだ。人間の布団巻である。一瞬に
して火は消えた。窮すれば通ずである。幸いドテラだけで身体に怪我はなかった。
 山田君とはよき酌仲間だが背中の火事ではいつも大笑いで昔を懐かしむ。

往事茫々              5期 尾崎鉄也

 札医大も今や50才の働き盛りである。この機会に同じ釜の飯を食べた仲間の記念誌を作るという。見渡せば輝かしい業績をあげ、又社会的に大活躍されている人ばかり。私など隅のほうに引っ込んでいればいいのだが、反面教師が一人いたほうが一段と皆様が映えるというもの。何はともあれ面倒な仕事を引き受けてくださる方々に、心から敬意を表する。

  寮の小母さん
 親元を離れると下宿か寮ということになる。私は3,4年目(今なら5,6年目)第一寮にお世話になった。食べ盛りに安い食費で小母さんのご苦労は大変だったと思う。昼食は体育館の半地下食堂の隣室で食べた。ここのカレーライスはとてもおいしかった。大学側の御厚意に改めて感謝する次第である。

  洗濯
 『男やもめにウジがわく』ということわざがある。今だったらコインランドリーだが、当時は洗濯板でゴシゴシやらねばならぬ。これは毎日の講義と同じくらいストレスである(先生方ごめんなさい)。たらいに浸しておくのだが、ついつい日が経ってしまう。気が付くと汲み取りトイレの主がかわいい子供のマンションに、チャッカリ占拠している。家賃や管理費がタダなのだからこたえられない。後にコイン投入式の電気洗濯機が登場した。舌打ちしながら引っ張り出すと、ゴーッと回り出す。正に現金なものである。

  トイレ
 この先はどうかお読みになりませんように・・・。碁の手筋で『打っ手返し』というのがある。憎い白石を取るや否や、黒石は『ハイそれまで』と召し上げられてしまう。この言葉は汲み取りトイレで黄金塊をハイセツし法悦の境に入った瞬間、パシャッとやられることにも使う。作用・反作用のニュートン力学に対し私は新聞にピンポン球大の穴をあけ、気持ちよくすませた。ウオッシュレットの発明者に、ノーベル生活賞を差し上げたいと思う。

  卒業試験
4年目(6年目)の後期に入り年が明けると講義は無く、週1〜2回の試験日に登校すればいい。そのためそれまでは制限されていた炭はたき放題ということになった。ストーブはルンペン式といって、きわめて単純な構造ながら良く燃える。欠点は石炭が燃え尽きたらストーブごと交換せねばならないことと、煙突掃除である。
 『小人閑居してふぜんをなす。』とは聖人の教えである。机に向かうくらいなら死んだほうがましである。何となく集まってはエイトコントロールをやった。いい成績で卒業するようにという皆様の御厚意なのだが、散々に追試を食った身がいまさら勉強しても手遅れである。トランプに飽きると故樋口潔君の話が始まる。彼は朝鮮にいたので『朝鮮では・・・』と切り出す。 尾ひれがついてつじつまの合わないところが出てくる。突っ込むと、『イヤーそれは・・・』とあわててごまかす。結果は口答試問に引っかかったがどうにか卒業し、インターン後の国家試験は堂々(?)合格した。
 かえりみて過保護に育ちわがままで、随分あたりの人にご迷惑をかけてしまった。現在函館赤十字センターの嘱託で、カミさんと2人ノウノウと食べていけるのは、ひとえに皆様のお陰である。改めてお礼申し上げる次第である。

寮生活を振り返って    5期 金城 幸善 (第二寮出身)                                    北中城 若松病院院長

 私は昭和29年4月、当時の第二学生寮(定員12名)に配置されました。私の郷里沖縄は当時米軍の施政権下にあり、本土への渡航は留学生のみに限られた厳しい占領政策化に置かれていました。幸い昭和27年度の留学生として採用され、弘前大学の文理学部に入学しました。当時わが国は未だ戦後の貧しい時代で、北国弘前での冬を炬燵で過ごさざるを得ない生活は、南国育ちの私には堪え難い現実でした。たまたま高校時代の友人が北大の獣医学部におり、札幌ではストーヴで部屋中が暖かく、快適な冬を過ごせると聞き、医学部は札幌で送ろうと決意し、幸い札幌医大に入学することが出来ました。寮生活を希望した所、大学に近くこじんまりしたアットホームな第二寮へ入寮が許可されました。
寮での最初の夕食時の思い出が今も忘れられません。食堂での夕食の折、寮長が炊事を担当していたむつ子おばさん(はにかみやで優しく、何時も小声で話しかける素敵な方)に、今回沖縄出身の学生が入寮したと話した所彼女は怪訝な顔でどの人ですかと聞き返しました。「金城君です。」と私を指示した所、彼女はしげしげと私を見て、訝るように本当に沖縄からきたのですか。と念をおされ、私はなんとなく憂鬱になりました。戦前のわが国の歴史や地理の教科書には沖縄についての記述が少なく、本土の多くの人々に理解されていなかったのも無理からぬ事と考えざるをえません。寮での生活は多くの優れた先輩や同僚に恵まれ、有意義に過ごすことが出来、感謝の念で一杯です。4年間の寮生活で19名の方々にめぐりあえました。その中から現学長と3名の教授が誕生しており寮出身者として非常に誇りを感じている。それぞれの天性の素質もさることながら、閑静な環境と、よき先輩同僚に恵まれ、互いに切磋琢磨して勉学に勤んだ成果だと思います。
沢山の懐かしい思い出の中から、今私の脳裡に浮かんでくる幾つかを書いてみたい。入寮間もない頃、先輩(確か雀部・中添の両先輩)に誘われ、渡辺左武朗教授(元学長)の御自宅に夜間伺ったことが思い出されます。当時古きよき時代の名残で、若い者を温かく迎え入れ、歓待し、人生論や学問について御高説を拝聴出来る機会がありました。当時新入生歓迎のためにダンスパーティーが開催されており、それへの参加のため、相手も新入りの看護学生と放課後ぎこちない足取りで練習に取り組んだものです。それが縁となりゴールインしたカップルもいます。練習の甲斐あって幾つかのステップも踏めるようになり、その冬の忘年会シーズンにある女性グループのダンスパーティーに寮生が誘い出され、楽しい一時を過ごしたことも思い出されます。ススキノで飲みあかし終電車に間に合わず、雪道を大声で歌い乍ら帰った事も何度かありました。周囲の方にはさぞ御迷惑だったと思うが、学生のバンカラ気質は大目に見てくれた当時のゆとりある生活や長困な暮らしが懐かしく思い出されます。東隣りには垢抜けしたレストランがあり、店の綺麗なお嬢さん見たさによく通ったものです。そのうち某君と親しくなったとの噂も飛びかったが、実を結ぶにいたらず淡い青春の語り草となった。又道路を隔てて西隣りには頭のツルツル禿げた頑固一徹のおじいさんの経営するラーメン屋があり、試験勉強の疲れや、空腹を癒すと共に、じいさんとの会話が楽しく、よく夜遅くから出掛けたことも懐かしい思い出として蘇ってきます。50年という長い歳月を経ると、このようなたわいもない思い出しか浮かんできません。
それぞれ個性豊かな方々との交わりは下宿生活では到底味わえない貴重な財産となっています。私は邂逅という言葉が好きで、人間は何かの縁で共に触れ合う機会に恵まれます。その奇縁を大切にし温かい友情を育むことが人生をより豊かにするものだと確信します。後輩諸氏が有意義で充実した寮生活を積極的に送っていかれることを祈念し、思い出の一端と致します。  
 

望嶽寮(旧)命名について       20期 斉藤 宣照

今から30年ほど前、私は自分のすんでいる学生寮に名前がほしいと考えました。私の中で寮に名前がほしいという思いが大きくなってきて、その思いはついに行動せずにいられない程の大きさに膨らんでいったのです。当時の学生寮はまだ名もなく、寮祭もなく、もちろん寮歌もなく学生が集まる大きな下宿のようであったともいえます。私の中には、大学の寮と言えば北大の伝統のある学生寮がイメージにあって、そのイメージに憧れていたのです。当時、私は寮長をしていたので、寮務委員会で寮に名前をつけることを提案し、寮生の最高決議機関である寮生大会で寮の名前を決めることが決定されました。その時の大会で寮祭についてもその構想について述べ、それから数ヶ月後の寮生大会で「第一回望嶽寮祭」が決まったと記憶しています。当時の寮生大会は寮の分室で行われ、ほとんどの寮生が参加していました。寮名を決める寮生大会では、4〜5件の寮の名前が提案されました。議論も白熱し、寮生の過半数を越える支持を得る寮名はなく、21期生の本田哲史氏の案と私が提案した「望嶽寮」とで決選投票となり、その結果、「望嶽寮」と決まったのです。寮名候補の提案段階、寮生大会での提案と討論など、多くの寮生の創意と議論を経て決まった「望嶽寮」と言えます。
当時、70年安保もあり、学生の政治的関心も高く、寮生大会もしばしばその時代と大学内の政治的影響を受け、緊張感のあるものでした。しかし、寮名に関する議論は政治的緊張感のない、当時としてはめずらしく楽しい雰囲気の寮生大会のなかでおこなわれました。
さて、「望嶽寮」の「望嶽」とは、漢詩にヒントを得たものです。本屋で立ち読みした本のなかに「望嶽」という漢詩を見つけ、「物事を大きな視野で大局的に考えるような寮生でありたい」と寮生に説明したことを覚えています。私たちの時代に決めた「望嶽寮」という名前が残っている。また、その年に始めた第一回寮祭での仮装行列は、大通り公園に繰り出し、その時の高揚した気持ちを今も忘れられません。寮の名前、寮祭の仮装行列が現在まで続けていることを知り、感無量です。 

青春の一コマ           23期 横串算敏

「同じ釜の飯を食う」という言葉があるが,学生寮で生活をともにした人達には言葉ではうまく表せない繋がりを感じるものがある.私が入学した年は昭和45年で当時正式な寮名はなく,「札幌医大学生寮」という古びた板看板がかっていたのがおぼろげな記憶に残っている.新入生は寮の玄関に隣接する3人部屋の洋室のいくつかをあてがわれ,学年が長じるほど奥の和室に移動するというのが内規であったようである.男女が同居する寮であったというのもユニークで,2階東側に男子禁制の女子部屋があった.
 同期(医大23期)で入寮したのが砂金,石井,坂本,浅井,滝上,渋谷,及能,太田,渡辺(現佐藤),田仲,沢崎である.昭和45年から46年にかけては学生運動が最も活発であった年でもあり,学生生活も多分にその影響を受けたが,寮生活については楽しい思いでばかりである.
 年度は定かではないが,「望嶽寮」という寮名が決まったのも我々が入寮していた時代である.寮生から寮名を募り多数決で「望嶽寮」と決められた.現在の寮祭のルーツもこの時代である.18丁目通りには衛生学院看護科(当時)のいづみ寮があり,多分にそれを意識して行われたような記憶がある.バンカラを気取って莚旗を立て,ぼろ白衣を羽織って大通りまで繰り出し,噴水に飛び込んだりしたものである.
 寮には時間制の風呂があったが,時々は6条通りをはさんだ斜め向かいの銭湯にお世話になった.食事は賄いのおばさんがつくってくれたが,昼は朝飯の残り,夜食は夕飯の残りにありつけることがあった.テレビがあるのは食堂のみで,学生が個人で電話やテレビを持つほど裕福な時代ではなかった.玄関横の小部屋に電話室があり,寮生が交替で電話番をしていた.玄関に鍵はなく門限もなかった.今時の寮は個室がほとんどと聞くが,個室がなくても個人のプライバシーを尊重できた時代でもあった.
 6条通りに面して,銭湯,タバコ屋,食堂,飲み屋,喫茶店があったが今はもうすっかりなくなっている.金のない学生にはススキノは遠く,酒代は寮の先輩が後輩の面倒をみるというのが伝統であった.今ほど多様な娯楽がなかった時代である.それが却って人間関係の深い結びつきをもたらしたと言えなくもない.校舎では学べない医学や医療の事柄も,先輩を通して耳に入ってきた.私にとってはもう一つの大学であったと思う.
 医学部を卒業しはや20年以上の歳月が立った.学生時代は辛いこともあったと思うが,それも時間の濾紙に吸い取られ,今思い出すのは少しばかり苦味のある楽しかった青春の一コマ一コマである.


私の青春時代の寮     26期 坂本和利(北海道勤医協病院)

 私が寮に入ったのは1973年入学後2年目の5月からでした。最初は201号室、玄関の上の寒い部屋ですが、角で窓が2つあったてよく入った部屋のように覚えています。食費の回収、石油の販売、屋根の雪下ろし、庭の掃除と雑用を得意とする私はみんなと共によく働いたものでした。寮長、庶務、会計など役員は多くやった方であると思います。そのころの望嶽寮は古い2階建ての建物で、冬になるとつつら、ガス漏れなどあり、みんなで雪投げ、雪下ろしをしましたが、古くて寒い寮はどうにもなりません。朝起きるとまずストーブに火をつけ、それからまた一眠りして起きなければなりません。それが出席カードに遅れる原因の一つであったかな?よく朝あわてて行き、出席カードを書いてからまた戻ってきて朝食となる日々です。朝昼兼用です。時には夕方まで寝て朝と夜を同時に食べ、12時の自由食を待って再度食べることも多かったです。寮はまわりを緑で囲まれ、夏は蚊や虫が多く出る都会の中の自然いっぱいの環境です。裏にはバレーボールのコートもあって、時々遊びました。
 バイトでお金があったときはススキノで飲んでも、帰りは歩きのことが多かった。冬は熱燗で暖まって30分歩いて帰ったものです。金がなくなるとみんなで出し合ってタクシーでススキノの酒屋でウイスキーとつまみを買って部屋で飲むことも多かったです。今のような24時間のコンビニはありませんでした。向かいの風呂も時間ぎりぎりで駆け込む人が多く、多少苦情もきたほどです。寮祭も派手にやろうと企画、がい骨を作って市内を歩く企画を始めました。いつも今年でやめようと考えながら、翌年になると何故かまた企画してしまう毎年でした。
 寮の部屋は最初は3人1部屋でしたが、途中から2人部屋でした。しかし、色々と組み合わせが大変でした。私は元来人が良いのか、いい加減なのか、どうでもよい性格でために、部屋替えがある度に多くの人と同部屋になりました。5年間でも記憶にあるだけで6人以上の人と同部屋になったように思います。
 6年の最後は学生結婚となり、退寮し、長かった寮生活に終わりを告げました。最後に送別会やら結婚の祝いやらしてもらいました。寮で一緒に碁を楽しんだNさんKさんから碁石のお祝いをもらったこともうれしかったです。そして無事、卒業、医師国試合格しました。あの時代だからできた青春時代の多くの思いでのある寮生活であったと思います。でも、これからの若者はこれからの時代の思いでの青春時代を作っていく寮生活にしていってもらいたいと大切と思います。

望嶽寮での思いで        33期 小林宣道

医大寮が今年で50周年を迎えることをお聞きし、そんなに長い歴史があったことに驚かされると同時に大変喜ばしく思っております。ふと振り返っても、懐かしく楽しい思い出がつい最近のことのように思い出され、自分の学生時代は寮生活そのものであったことを感慨深く思い返しているところです。私は第1学年の後期から6学年の最後まで(1980-1986)、望嶽寮で過ごしました。望嶽寮は、あの当時でも滅多に見られない程年季のはいった木造の建物で、最初の頃は玄関の中に入っただけで数十年タイムスリップした感がありました。しかし寮の不思議な魅力というべきでしょうか、廊下を歩くとミシミシいうほどの寮の古めかしさがこの上ない心地良さと安堵感をもたらしてくれておりました。また集団生活の場であるにもかかわらず門限なども無く、各個人が自由に寮生活をエンジョイしていたことを思い起こします。望嶽寮での生活が楽しかったのは、同学年はもちろん、学年を超えての人間関係がとても充実していて、多くの同級生、先輩、後輩と時間を気にすることなく話すことができたからだと思います。特に非常にユニークな先輩がたくさんおられて、様々な価値観やライフスタイルを見させてもらったことは寮でなければ得られない収穫であったと思っております。ギターの達人とか、勉強家で名の通っていた先輩もいましたが、いつも飲み会を盛り上げてくれる気さくで人の良い先輩もたくさんおられました。寮の主な行事、飲み会は勿論、日常生活の中で先輩方の話(時にはお説教)をお聞きすることで、随分と社会勉強をさせてもらったような気がします。また同級生同士でも誰かの部屋が自然的にたまり場になって、夜遅くまで飲み食いしながら話をすることも多くありました。(ただ、たまり場となった部屋の住人には随分迷惑をかけてしまいましたが。)こうした寮の楽しさが裏目に出て朝起きられず、1講目の出席が危なくなる人が出てくるのは昔も今も変わらないことでしょう。また時々起こる問題や寮のあり方に関しては寮生大会が開かれ、とことん話し合いをした上で決議がなされて行きましたが、そのような時改めて医大寮が単なる宿舎ではなく、「自治寮」であることを認識させられました。こうした自由な気風の中にも自分達のことは自分達で決めてゆくという精神、これが医大学生寮に流れているすばらしい特質ではないかと思っております。現在の望嶽寮は立派な建物に変わり昔の面影は感じられませんが、寮の良さである学年を超えての楽しい人間関係と自由な気風をぜひ今後も引き継いでいってほしいと思います。またその中で多様な価値観を持つ多様な人材が育って行ってくれることを期待しております。

寮生時代             34期 小野裕之

 ふと、窓から外を眺めるとカリフォルニアの初夏の陽光がプールサイドにきらめいている。日差しは強いが、乾燥した涼風がそよぎ、この一文をものするにはとてもふさわしかった。サンディエゴ、DANA INNにて。
 という締めの言葉を考えて、アメリカ消化器病学会に行ったついでに、とっくに締め切りを過ぎたこの原稿を書こうと思ってノートバソコンを持ち込んだが、案の定というかお約束というか、サンディエゴはずっと雨模様で、ホテルは場末のモーテルだった。がたついた窓の外から毛唐のお子さまたちが部屋の中を物珍しそうに覗き込む。「どうして毛唐はガキのうちから英語を話せるんだ!」と、憤る。今日の発表で、毛唐医者たちからのやつぎばやの質問に、「アウアウアウ」と訳の分からないつぶやきをもらしながら意味不明の日本人的微笑みをうかべるしかない自分を思い出した。今私が英語を話せないのも、振り返れば石間や竹見や原田や武が悪い。彼らが私に勉強しなくても何とかなるという体質を教え込んだのだ。ついでにいうと、原稿の締め切りは2回以上されてからが本当の締め切りだ、という理論はがんセンターで学んだ。
 石間と竹見も原稿を頼まれているらしいが、どうせ石間は寮時代のべたべたの回顧談を書くタイプじゃないし、竹見はマニアックな世界に入りそうだ。同期5人の中で、常識の人と呼ばれた私以外に当時の真実の語り部となり得ないようだ。
 あれは1981年4月のことだった。当時の寮は建て替える前の汚い、だが落ち着ける場所だった。同期5人は寮に集った(正確には武のみ数か月後に入寮)。 石間は豪放磊落で一見破滅型だが実はそうではないことを私は知っている。竹見は自治会のシンパのようであったが、実はまじめな体制派であることを私は知っている。原田はついに大学時代は童貞であったが、今はそうでないことを私は知っている。武は最初は共産党シンパだったが、飲み会で2回ころんで頭を打ってから、革マル系に転向したことを知っている。そして幼かった私が学んだことは、女性は化粧をとるとめちゃくちゃ顔が変わることだった。朝、斎藤寮母さんと会ったときにその真実を学んだ。さらに、寮母さんの女の子はすぐ大きくなることを学んだ。倉本さんとこのちえ、秋葉さんとこのまさみ、斎藤さんとこのかなは、6年間であっというまに小学生から中学生になっていって、あまりの変貌に深く人生をみつめた。ちなみに倉本さんのところのてつは、いっこうに大きくならなかった。
 実は、私には愛校心がある。6年間とても楽しく過ごさせてもらった。どういうわけか、私には友達が少ない。数少ない友達が、大学時代の寮生の同期である。札幌医大に入っていなかったら、友達のいない男として一生をおくるはめになっていたと思うと背筋が寒くなり、ときどきうなされて目が覚める。結局思い出なんて場所と人である。空手部と寮に入っていたおかげで楽しく、ときにほろ苦い思い出は山ほどできた。6条通りのあらまさの前のビルは私たちのへど柱を土台に建っている。あらまさのおやじに七福湯で風呂上がりの牛乳をおごってもらったり、4期上の増田さんに七福湯の湯船に腰掛けさせられて2時間近く話をしたり、そのあと今はマンションが建っている寮の目の前の鳥政で焼酎をおごってもらったり、3期上の島崎さん(女性)ととりまさで飲んだとき、「女の子は銭湯で下を隠さないで上を隠すのよ」と教えられ驚愕したり、2期上の松浦さんが彼女と車を洗っているのを見て、正しい女性とのつきあい方を学んだり、安達さんが夜中の3時に酔っぱらって部屋に乱入してきて「人生とは何か言って見ろ!」とアナクロな発現にむかっ腹をたてたり、そんな七福湯と鳥政は今はなく、あらまさのおやじも今は亡い。あらまさのおやじが死んだのは東京に来てからだったが、石間がサッポロソフトをもって東京にきたときに、しばし鎮魂の酒を飲んだ。
 ところで、今石間に電話をかけて聞いてみたところ、まだ寮は以前と同じ二人部屋だそうだ。ずっと疑問に思っていたのだが、みんなマス○ーベー○ョンはどうしているのだろう。石間や竹見と同室だったときは生活時間が違うので何とかなったのだが、原田とは空手部も一緒で、ということはほとんど24時間サイクルが一緒な訳で、とても苦労した。相手の寝息を伺うコツをこの時学んだ。この話を書いていて思い出したが、1期上の空手部の倉さんに合宿に行く前の晩に呼ばれて、「明日から合宿だ。俺もマスをかくからおまえもかけ。」といわれ、カーテンを閉めてことにおよんだあと、「押忍、先輩かきました。」と言ったら、「なにい、きさまほんとにやったのか」といいだけ言われたこともあった。うん、懐かしい。話がシモネタ系になったところで、ついでに書いてしまうが、原田が久我(36期)と一緒の部屋になったときの話である。夏休みで原田が帰省しているのをいいことに、久我が女の子をやっとのことで寮に連れ込むことに成功したのであったが、原田は予定より一日早く帰ってきてしまっていた。私の脳裏にはあのときの久我の 「はらださん、か、帰ってきていたんですか〜」と言った悲痛な声が今でもよみがえる。私は寮で悪さをしてはいけない、という真理を学んだのであった。久我に「俺のときは同室の石間は日本一周チャリンコ旅行にでていたもんね。」などと追い打ちをかけることはけっしてしなかったと断言する。ましてや石間が途中で「や〜めた」といって引き返してきて危うくニアミス状 態だったなどということもけっしてなかったことをここに述べておきたい。
 ともあれ、私は楽しかったあの時代を感謝している。友達に、先輩・後輩に、寮母さんに、再試の山に、出席が足りず留年するところを助けてくれた先生たちに。石間が東京に来たときには竹見と、ときには原田や武や秋山も加わって、当時の話に花が咲く。俺たちもじじいになったものだと自嘲しつつ。
 

「たらいを手に あら政へ行く」   34期 竹見敏彦

寮のはす向かいに「七福湯」という銭湯があった。私は風呂が大好きで、町を歩いていても旅行先でも、銭湯が目にとまると、つい、入ってしまうほどなので、七福湯はありがたかった。毎日のように通い、寮の一部といえた。寮祭の日にはパレードが終わると全員で入りに行き、ポスターカラーの赤や緑や紫色で、洗い場のタイルが鮮やかに染まった。「おおき」の主人や「あら政」のマスターもふだんからよく入りに来ていた。「あら政」のマスターは、遭うと風呂上がりに牛乳をおごってくれたりした。学1の試験をひかえたある日など、同級生の小野 (現、国立がんセンター中央病院)と、しこたま夕食を食って満腹で入っていたら、日曜日にもかかわらず、今から店でご馳走するから是非来てくれという。上機嫌であったが、来ないなら今後君たちの面倒はいっさいみないといった迫力をにじませていた。ここでマスターの誘いをことわることは退寮を覚悟するに等しい所業であったから、ありがとうございますと言って要望に応じた。それからマスターはいそいそと定休日の店を開けると僕らを食材の買い出しにやらして、たしか、山盛りの枝豆と水炊きうどんと、ビールの大びんを各6本づつ、1時間余りの間に平らげさせた。ちょうど始まったスポーツニュースを肴に大いに盛り上がった。今から思うとマスターは、中日の星野仙一に、少しだけ似ていたような気がする。私たちの胃袋は全力を振り絞って頑張ったが、散会と同時にたまらず雪の路上にその内容をぶちまけた。しまった、という気持ちと照れ隠しで、手に持っていた「たらい」であわてて雪をかけ、走るように寮に帰ったものである。1983年の晩秋、日本シリーズ第2戦があったこの日、巨人が西本投手の活躍で西武を完封した。マスターはその歓喜に耐えきれず、僕らを誘ってくれたにちがいなかった。あれから17年。「七福湯」も「あら政」のマスターも今はないが、こうして私たちをとても可愛がってくださった。この思い出もまた寮生活のまぎれもない1ページであった。
さて、全然関係ありませんがここでクイズです。
(1)このころ、一時期ですが寮の食堂にたいへん印象深い芸術作品がありました。かなりの高値がつけられていた様子でした。さて、その作品とは何でしょう?
(2)同じころ、なんと「札幌医大望嶽出版」というのがあって、1冊だけの単行本の出版がありました。その作品名は何でしょう?

こたえ(1) 噴火する十勝岳
解説:謎の多い絵画ですが、作者は、当時寮を歩いていると昼夜を問わず必ず出食わすので、実はクローンが何人かいたのではないかと噂された某I氏あるいはその関係者との説が有力でした。
(2) アリサの誘惑
解説:純真な若き医学生の目を通じて難病の少女をえがいた。北海道新聞の書評まで出た、知る人ぞ知る名作。しかし通読できたものは意外と少ない。作者は、ファンレターに応じて出かけても、すぐまた寮にいるのでクローンがいるのではないかと噂された某I氏。なお、「望嶽出版」の実態は大学関係者はもちろん、寮長、寮務委員会もいっさいつかんでおらず、その出版にまつわる謎は、今も多くの人々の好奇心を誘っています。

「20センチ」           36期    石間 巧

 雪解けは今よりずっと遅かったように記憶している。寮の前の道は水があふれていて、あちこちに雪山が残り、靴のへりはいつも濃い色がしみ出ていた。昭和56年の春、大学には入学したけれど、自分はいったい何者なのかはっきりしない気持ちのまま、大学にはカードを取るためだけに時々出かけていた。
 4月の末の休みにNの家に行くと、遠足に行こうというので出かけた。目的地は小樽にしようか、いや函館だということで歩いて行くことにした。ワンゲルの部室から、赤い三角テントを借りてリュックを背負った。
1日目は定山渓で暗くなった。あまりに近すぎるので、もう少し稼ぎたくて歩きとうしたが、とうとう中山峠で深夜になってしまった。野宿するつもりだったがとても寒い。灯りを頼りに大声を出してみても、誰も答えるものなどない。無人のビニールハウスに、段ボールを敷いて横になるが寒い。こおった地面が凍みた。
2日目は、豊浦に昔の友人の自宅があったので電話してみた。本人は居なかったが、おじさんとおばさんは、昔と変わらず良い人だった。豊浦には、きっと8時頃つきますけれど今晩泊めてもらえますかと言ったら、おじさんが車で迎えに来た。
翌日おじさんが、みんなには黙っていれば誰もわからないからとは言ったが、ヒッチハイクで戻ってまた歩き出した。昼過ぎに豊浦を通ったときNが、今頃まだ居るとは思わないよなあとつぶやいた。その夜は札文華に泊まった。町まで遠いので、買い物に行こうと近くの家で自転車を借りたら学生証をとられた。あやしく見えたかあやしく。
4日目は、静狩峠から雨が来た。黄色いポンチョのひさしに切り取られた、わずかな隙間から覗く暗い雲と、少しずつ落ちてくる雨。雨だ。冷たい雨。長万部をすぎた頃、雨足が強くなってヒッチハイクをした。運転手のおじさんが、八雲の自宅に連れていって泊めてくれた。晩御飯もごちそうになった。カレーだった。足裏はマメだらけ、マメの上にマメができていて汚かったけれど、世の中は捨てたものじゃない。
5日目、汽車で国縫まで戻って歩きだした。車に乗った場所に石を置いておいた。この日、眼鏡をなくした。昼に休んでいたときに、汗を拭いたまま自動販売機の上に置き忘れてしまったのだ。程なく気が付いて戻ったが、もう無かった。いろいろある。
6日目落部を出た。七飯でもう陽は落ちて、星を見ながら歩いた。函館の灯りがすくい取れるくらいに近く見えてきて、五稜郭でNがここから帰るから金を貸してくれ最後まで行くのじゃあんまりだそうかとういので有り金全部貸してしまい白いガードレールで休みながらしょうもなく函館までひとり歩いた。そんな歌あったなあ。寮に帰り着いたとき、車代が無くて103号室のMさんに借りた。初めて話した6年生のMさんの部屋は、20センチしか開かなかった。まだ、そんな時代だった。

旧望嶽寮の思い出     40期 淺野 嘉一

「バンカラ」という言葉を耳にしなくなってもう久しいが、旧望嶽寮のイメージを思い出してみるとそんな言葉が似合っていたような気がする。木造2階建のボロ屋敷、半纏を着た寮生達、毎晩何処かしらで催されている酒の宴、理不尽な仕打ちの中にほんの少しだけ優しさを垣間見せる先輩達、同室者との喜怒哀楽に満ちた人間関係などなど、至る所に人間臭さ、野暮ったさ、温かさ、人懐っこさがあふれていた。以前からバンカラな学生生活に憧れていた私は、既に北大の恵迪寮も改築されて昔の面影をなくしていた昭和の末期に、よくもまあこんなものがこうして自分の大学に残っていてくれたものだと嬉しく思ったものだった。
2人(時に3人)部屋での共同生活は、ある時は楽しい修学旅行の延長のようでもあり、またある時は近すぎる人間関係を疎ましく感じるものでもあったが、寝食を共にする事で否応なくお互いの生き方や考え方に影響を受け与えながら、いつしか気が付くと親兄弟よりも近しい特別な友情が築かれていたりする、そんな環境はたとえ望んでも他では決して体験できない貴重なものだったと思う。
寮の老朽化を理由に現寮への改築案が持ち上がった際には、そうした寮の良き伝統とスタイルを守るべく寮生が一丸となって大学側と交渉を繰り返し、当時の趨勢だった全室個室で食堂等の集会所のない無機質な寮ではなく、従来通りの二人部屋で食堂付きを実現させることができた。(かつての大学紛争では寮がその一大拠点になった歴史的経緯から、その後の国立大学の学生寮改築に際しては人が多く集まる場所を与えないとの国・文部省の方針があったらしいが、本学は幸い道立だったため交渉の余地が残っていたものと思われる)個人主義的な風潮が拡がっている時代に、ともすれば失われてしまいかねない大切なものを寮生達が自らの総意として手に入れ、次の世代に残し得たことは大きな誇りだろう。一人になっていろいろと考えてみたくなり、バンカラな思い入れの強かった旧寮が取り壊されるのを機に3年8ヵ月間の寮生活に終止符を打ったが、離れてみて改めて思い知らされたのは自ら手放してしまったもののかけがえのなさだった。
退寮して一人暮らしを始めてからも、また卒業して北海道を離れてからも、たびたびハイカラになった現寮を訪れては寮生達と酒を酌み交わしたりしているが、外観は新しくなろうともその中で変わることなく楽しい寮生活を謳歌している連中を今さらながら羨ましく思うとともに、この望嶽寮が今後もずっと素晴らしい寮でありつづけてくれることを願ってやまない。

望嶽寮の思い出        42期 渡辺学

今から遡ること10年前、桜満開の千葉からまだ雪の残る札幌に到着し、寮を探して道に迷いながら、文化遺産の如きたたずまいをみせる崩壊寸前の木造建築物の傍らで立ち話中の‘めぞん一刻’のなんたらさんにそっくりなおばさんに「札幌医大の‘ぼうがくりょう’ってどこですか?」と尋ねたところ、「ここですよ。」といわれビックリしたのなんのって。中に入るとこれまた寮生の正装はドテラだといわんばかりに華麗なるドテラファッションに身を包んだ先輩方で一杯であった。部屋の壁は学生運動華やかりしき頃書き殴られたと思われるスローガンで一杯であり、「いやぁ、何かえらいところに来ちまったな」というのが正直な気持ちであった。そして新入生 の私は当然連日連夜の歓迎を受け、「酒の一滴は血の一滴」の教えのもとに飲んで飲んで暴れて吐いていたものだった。まぁ、シラフでいる時間の方が短かったね、あの頃は。下級生ができたらああしてやろう、こうしてやろうと同級生達と夢想しながら、厳しい(?)一年間を堪え忍び、待っていましたョ荻野君!「僕のToy Box! Toy Box!」と歌いながら真っ赤なそりに乗った君を山田と一緒に連れ回したね。楽しかったかい?そうこうするうちに新寮が建ち、寒い冬の日に引っ越したわけだが、始めのうちは洗濯物や歯ブラシが凍ることのない日々に驚嘆の声をあげたものだった。でも人間って現金なもので2−3ヶ月も経つと夢のような新寮ライフにも馴染んじゃって、私の部屋(っていうか私側半分)は早くも旧寮のそれの状況を呈しつつあった。札幌のお母さん代わりだった塩ちゃんはせっせと整理整頓をしてくれていたけどいかんせん、「やっぱエントロピーってぇのがさぁ!」などと物化ぎりぎりで通ったくせに訳のわからん屁理屈をごねては部屋を散らかしまくるお子さまには敵わなかったようだ。ごめんよ塩ちゃん。新寮への引っ越しもそうだったけど、倉本さん、斉藤さんの総務課、学務課への移動も寮生にとっては大事件だった。お別れ会の幹事をやらせてもらったが、改めて寮の歴史と二人の人徳を認識したもんだ。寮祭、花見、いずみ寮、思い出を挙げていったらきりがないけど、そうそう、恒例となりつつあった年末の定例寮生大会後のパンツ一丁雪合戦はまだ続いているの?雪合戦はまだいいけどその後その格好でローソンに大挙して押し掛けるのは品がないからもうやめたほうがいいよ。卒業後すぐに上京し、札幌での生活が途切れてしまったせいかもしれないけど、望嶽寮でのことは昨日のことのように思い出されます。今でも、寮に戻ると昔の懐かしい仲間達が相も変わらず食堂でうだうだ飲んだくれているような気がしてなりません。どうかいつまでも貧しく、品のない、逞しい寮生であってください。



「オモハナ」を覚えているか!      43期 山田 真吾

 札幌医科大学学生寮の50周年記念にお祝い申し上げます。
 入寮した1989年は天安門事件、ベルリンの壁崩壊そして新寮問題検討と激動の年だった。街にはウインクやランバダのメロディーが流れバブル全盛の時に木造2階建ての望嶽寮の窓には破れたビニルが春風になびいていた。雪解けから自転車がその姿をあらわし、たてつけの悪い玄関を無理に開けると埃っぽいサンダルや下駄が散乱。様々な何かがしみ込んだ光輝く廊下は左は隠居棟、右は食堂まで奥深く続いていた。
 大学には入ったが新たな目的を見い出す間もなく寮長であった宮川さんをはじめ寮の先輩達は私達を大歓迎してくれた。「一気飲み防止」、「セクハラ」といった概念はまだ一般的ではなかった。内容を覚えているものは少ないが目を血走らせ何時間も討論し、先輩の言葉に感動した。電話帳のように厚い歌詞本を皆で覗き込み大声で朝まで歌い続けた。ピック代わりに1円玉でギターを弾いていた才野さんや台野さんの色褪せたジーンズは銀色に光っていた。
 金はなかったが時間はあった。皆で「オモハナ」に盛り上がった。それは単なる日常生活でのささいな出来事、うわさ話から医学、寮のあり方、自分達の将来まで多彩であった。感情的なシーンに興奮した。
 いまこの原稿を静かな道北の片田舎で病院のポケベルをそばに置き書いている。イトチン、七福湯の説教じいさんは今でも元気だろうか・・・。



寮生の皆さん五十周年記念おめでとうございます。
                       元寮母 倉本 良子

 昭和五十二年四月より、学生寮勤務十五年、大学事務局総務課勤務九年目に入り来年三月定年(予定)となる年齢になりました。二十四年間を通じて旧寮、新寮、大学事務局と楽しかった思い出、苦しかった思い出、色々なことがありましたが、寮生活の思い出は、私の最高充実した日々だったように思います。
 ふり返って見ますと、チエが三才、テツが二才で二人の子供づれ引越して来た時は、現寮生には想像もつかないような古い建物でした。こんな所に住めるのかしらと思ったのは、OBの方々も私と同じ思いだった事でしょう。お買い物に行って、配達をお願いすると、あのお化け屋敷のような所に人が住んでいるのと良く言われたものでした。
そんな寮も住めば都で、旧寮から新寮に移る平成二年十二月一日に行われた旧寮さようならパーティーの時は色々な事が思い出され、何と言っても忘れられない廊下のスケートリンク、玄関の上の静養室、別館のすがもりは一日何回もバケツ、タライを置いて交換をした事や、水と云えば別館の二階へつづく階段にある消火栓が破裂して、二階の階段から一階の廊下へ川のように水が流れた事などは、今も鮮明に憶えています。
 ある日、臺野さんの実家釧路から大きな荷物が届きました。私も始めて見た立派な角のある鹿一頭、どうして解体していいのか分からず、まずは上級生にメスを持っておいでと言って、鹿一頭をどうにか解体して焼肉パーティーをしたが、大量の肉でとても食べ切れなかった事など、私は貴重な体験をしたとしみじみ思い出します。色々な思い出が走馬灯のように浮かび、なつかしさ、さびしさが本当に心に残るパーティーでした。
 その旧寮とお別れして、平成二年十二月八日新寮に移り、平成四年四月より民間委託が現実となりました。私と斎藤さんは大学勤務を命ぜられ現在に至っております。私の勤務している職場は、衛生管理という所で職員の健康管理事務なので、職員の採用、昇格等の書類が廻って来るごとに、あの先生が助手、講師、助教授にと我が子の出世を喜ぶように目を細めて見ております。
 また、医大勤務から他の医療機関に転出される方も、母さん今度この地の病院に行ってくるよ、帰ってきたらまた医大の病院に戻ってきたよ、と顔を見せてくれる時の嬉しさは、寮母をしていて本当に良かったと最高の喜びを感じています。年間行事の餅つき大会、追い出しコンパ、寮祭、忘年会といつも声をかけて頂き参加しておりますが、OBの先生方と逢える事も楽しみにして参加しております。
 今年は記念すべき五十周年記念です。何か企画をして皆さん寮でお逢いしましょう。最後ですが伝統ある素晴らしい寮を寮生の皆さんで築いてください。また、本道の医療を担う若き医学生、医師として活躍をされますよう祈念してペンをおきます。

札幌医科大学開学五十周年にあたって  
                   元寮母 斎藤 美津子

 五十周年おめでとうございます。
 私の学生寮での勤務が決まったのが、今から二十年前の昭和五十四年八月でした。それから、現在の勤務先である大学に移動になるまでの十三年間、学生寮の寮母として寮生の皆さんと一緒に生活をしていました。今となっては、とても短い十三年間だったと思います。毎日、寮生達と交流があり、まるで大きな家に住んでいる大家族といった感じでした。寮母になり始めの頃は戸惑いや不安もありましたがそのうちに息子、娘みたいに思えてきたのは言うまでもありません。今だから言えますが、一日二回、大人数分の食事の支度、買物、後片付け等、決して楽なものではありませんでした。良くやってこれたと思います。
 旧望嶽寮の話ばかりになってしまいますが、現在の寮生には想像もつかないくらい古い建物でした。木造二階建て、廊下は歩く度にギシギシ、雨が降ると当然雨漏り、冬は冬で全ての窓に外から厚いビニールを張り隙間風対策、あげればきりがありません。初めて、これから自分が住むと決まった建物を見たときのショックは相当なものでした。本当にここに住めるのか、果たして人は住んでいるのか。こう思った人は私だけではないと思います。私事になりますが、当時小学こう一年生だった娘は、私の不安をよそに夜中のトイレを除いては、「新しいお家だ。」と喜んでおりました。子供にしてみれば、広い寮内は格好の遊び場、それに遊んでくださるお兄ちゃん、お姉ちゃんがたくさんいたからでしょう。
 現在、私は総務課会計室需要品係でがんばっています。寮母という仕事を離れた今でも、やはり寮生は特別かわいいもので、りょうの年中行事には、いつも忘れず声をかけてもらい、楽しみに参加しています。
 私にとっても娘にとっても、本当に例えようもない貴重な十三年間を寮生の皆さんと一緒に過ごせたこと、誇りに思っています。建物は変わったけれど、先輩から受け継いだ古き良き伝統をしっかり守ってほしいと思います。
 最後になりますが、望嶽寮のOBの先生、これからの北海道の医療を担って立つ医学生、医師として寮生であった事に誇りを持って活躍されます様、願ってやみません。