目次  (文面は平成12年に書かれたものです。)

ある学芸員の報告(T君の物語)       平成14年卒 神谷 崇文
望嶽寮の思い出                平成14年卒 神津英至
望嶽寮について                医学部6年 渡辺 一平
寮内恋愛の是非について          医学部6年 北村友一
望嶽寮について                 医学部5年 小川 宰司
寮生活を振り返って           保健医療学部4年 関島 将史
望嶽寮について                 医学部4年 正木智之
寮の生活について           保健医療学部4年 久慈みゆき
寮に入って                   医学部3年 伊早坂 舞
望嶽寮ーそして伝説へー           医学部3年 浅井英嗣

ある学芸員の報告(T君の物語)  神谷 崇文 

 T君はもう大学に入って5年が経とうとしている。現在のT君はしわくちゃの白衣を軽やかに着こなす5年生であり、周りの人からは「いいかげんだ、クレイジーだ」のと言われても本人にとってはどこ吹く風という感じらしい。そんなT君のあくまで自分の道をまい進する姿は私には心地よくさえ感じる(ときもごく稀にはある。がほとんどはいらいらさせられるだけである。)そんなT君も昔はこんなふうではなかったのだ。そんなことは私だけではなく、先輩なら誰でも知っている。さらに最近では「こんな風になったのは80%くらいは寮のせいだ。」と平気で言い切ってしまう彼の『人格崩壊の過程』が私の研究テーマであり、研究の結果、いくつかの過去の出来事が彼を変えていった事が分かったので紙面の許す限り書かせてもらおうと思う。下記の数々の事件を見ていただいて、T君に対して、「そりゃ、人格も壊れるわ。」というお情けでも生まれてくれればこれ幸いである。しかし、いかに下記の事件が事実に基づいているとしても文書が残っているわけではなく、すべて伝聞、記憶に頼っているため多少の間違いがあるのは許していただきたい。
                    文責  みふたかやみか(望学寮学芸員)


T君の歴史
入寮初期
 T君の人格崩壊の歴史のあけぼのである。入寮初日は特にfirst impactとよばれている。このころまでお酒をろくに飲んだことのなかった彼は生まれて初めて本物の酔っ払いを見ることになる。このころ1年の新入寮生は、生真面目T君、桑名ハマグリ藩の殿様である清水、できすぎ君の菊池(物理のみ)、制吐会長の高野、洗練されたCity Baby(Boyじゃないよ)の藤井、静岡の分裂ちゃんこと徳田、とこれだけ濃い面子に囲まれ生活をすればT君も変わっていくのはわかると思う。
アルカトラズ刑務所脱獄事件
 脱獄不能と謳われたアルカトラズ刑務所(望嶽寮)の飲み会に1年の秋頃から脱獄(逃亡)する方法を画策し始め、ついに音声認識による法則(ただ単に酔っ払いの声が聞こえるのでそれに反応するだけ)を発見し初の脱獄に成功するのはこのころである。このころのT君はお酒がつらく、爆睡していても寮の外100メートル先の叫び声を聞き分ける能力が身についた。

 ああ紙面がなくなっていく。本当はもっと書きたいことがあるのに。また無計画性がたたってしまった。まあ、でもおかげさまで今は楽しくやっています。これからも「こんな楽しい寮が続いてくれたらなー」と思います。強引な締めですがこんなもんでしょうか。なんかちょっと分裂入ってるかも。まあ、いいっか。            おわり

望嶽寮の思い出         神津英至 


 僕が望嶽寮への入寮を希望したのは、家の都合もあるが、大学のパンフレットに同封された入寮案内を読んでからだった。はじめはやはり一人暮らしに憧れていたが、入寮案内を読んで、所々にちりばめられた控えめなギャグ(下ネタ)に妙にハマってしまい、また何よりも楽しそうだなあと思って入寮願いを出した。その後、入寮許可との通知を受け、期待と不安を胸に札幌にやってきたのは1996年4月3日のことだった。
 入寮初日の飲み会はまだ歓迎モードだった。「僕ビール飲めないんですよ。」今考えると背筋が凍りつくほど寒い言葉も、まだギャグになった。しかし、次の日からは地獄だった。気を失うということを初めて経験した。今日が何曜日なのかもわからなかった。とにかく夜になるのが怖かった。極めつけは灯油タンクに入ったサッポロソフトだった。何かの間違いかと思った。当時はオウム事件の真っ盛りで、サリンと呼ばれていた。薄れゆく意識の中で「うまいこと言うな…」と思った。
 やっと大学が始まり、新入生の研修である定山渓から帰ってくると、ついに部屋がもらえる。あの時の感動は表現しがたい。しかし、それと引き換えに「内線呼び出し」という新たな恐怖も待っていた。結局、新歓が終わるまでの約1ヶ月は生きている気がしなかった。
 5月になると、やっと人間らしい生活ができるようになった。しかし、すぐに寮祭の準備が始まり忙しくなる。僕の学年は13人もいたので、寮祭の仕事を通してやっとお互いを仲間として意識しはじめたように思う。その後も寮の行事はたくさんあったが、その準備を一緒にする度に、13人という大所帯学年ならではのバラバラになりやすいベクトルが、ひとつの方向に向かっていることを感じていた。それにしても今思い起こせば、1年生はつぶれてなんぼ、だったように思う。
 2年生になり、初めての後輩が入ってくる。そのとたんに、自分たちの役割はがらりと変わる。すべての行事を仕切り、1年生に仕事を教える。自分たちは決してつぶれず、つぶれた後輩の介抱をする。言葉で言うのは簡単だが"責任感"、この一言に尽きる。社会に出て最も必要とされるもののひとつを、この1年間で徹底的に学んだ。特に寮祭では、ただただ成功を願い、皆一丸となって頑張った。各自が責任を持って仕事をして初めて成功するものである。達成感の中、打ち上げで飲んだビールは格段とうまかった。
 3年生になってだいぶ余裕がでてきた。そうなると、やることは飲み会だ。同学年の寮生ととにかくよく飲んだ。そしてよくけんかした。お互いが自分の言いたいことを相手に言いまくった。当然意見は食い違い、議論は白熱し、酒がそれをさらに助長する。時には、相手を言葉で打ちのめすこともあった。しかし、本音で話のできる友達がいることは本当に幸せだと思う。寮はそういう人間関係を育んでくれる。友達と呼べる人間はたくさんいるが、その中でもやはり寮生は自分の中で特別な存在だ。同じ釜の飯を食って、ひとつ屋根の下で一緒に暮らし、先述の地獄(?)を共に乗り越えてきた仲間だからだ。寮で培ったこの人間関係は僕の誇りである。
 なんやかんやでもう5年生になってしまった。大学生活も折り返しだ。早いものだ。しかし、この5年間は僕の22年間の人生の中で最も刺激的な環境だった。望嶽寮ほど僕の人格形成に影響を与えたものなど記憶にない。この寮で大学生活を送ったことは僕の一生の誇りであり、今後の人生に自信を与えてくれるだろう。    
 今年度から保健医療学部生も入寮し、望嶽寮にも新たな風が入ってきた。1年生を見ていると、「若いなぁ」と本当に思ってしまう。自分にもこんな時期があったのかとジジくさく考え込んでしまう。彼らもこれから寮でいろんな事を学んで、人間的に成長していくのだろう。そして上級生になったとき1年生を見て「若いなぁ」と思うのだろう。そんなことを考えていたら、なんだか微笑ましい気持ちになった。

望嶽寮について          渡辺 一平

1997年の4月3日、僕は望嶽寮にきました。とてもよく晴れていた、ということだけは何故かしっかりと憶えています。高校三年間も寮暮らしだった僕は、大学では、一人暮らしで気ままにやりたいと思っていましたが、両親に(費用の面で)押し切られる様にして入寮することになりました。午前中に着いて荷物をセミナ−室に置き、「ここでしばらく暮らしてもらう。」と案内されたのが真壁さんと濱田さんの303号室でした。今となってもあのなつかしい臭いで飼われていた頃を思い出します。(ロスナイは常に強でつきっぱなしでした。)
入寮したての頃は、今振り返ると恥ずかしいことばかりです。また、なぐられもしたし、よくわからない説教や、ためになる話、夜中突然車でら致されて徹夜のドライブなど数々の激しい(ちょっと激しすぎるかも知れませんが)思い出がいっぱいです。
例えば、宝来でA定のご飯大盛りおかず大盛りという洗面器一杯分もあるようなものを食わされたり、焼き肉をものすごく食わされて、すごく苦しい時に銭函の長い直線の道路を午前4時位にダッシュさせられたり(その直後嘔吐)というすごくつらいものや、カラオケに行ったりビリヤ−ドをしたり、お昼をごちそうになったり(普通に)ドライブにつれていってもらったり(夜中ではなく昼間)という楽しいものがありますが、やはり印象に強いのが、つらい方です。(某K先輩は、「つらい方が記憶に残るんだ。つまりオレ達はおまえたちに思い出をつくってやってるんだ。アッハッハッ」とおっしゃっていました。)
そんなこんなで一年生の時は(特にはじめの頃は)絶対やめると何度か思いました。しかし、途中でやめるのは僕としては癪であったし、その時の寮長だった磯部さんが「一年間は居て、寮を出るか出ないかは、それからでも遅くない。」と言っていたことを思い出したりしました。
今では、やめなくて本当によかったと思っています。学年が上がるにつれて、上の人がどうしてあんなことをしていたのかが少しわかるようになりました。
寮のいいところはいろんな人に会える機会があることだと思います。このことについてこれ以上書くとうそくさくなっちゃう気がするので、このくらいにしておきます。
気がつくと4年になっていて、学年だけ上になって、それにふさわしくなっているのか?と思うこともあり、むずがゆいものがあります。学生生活も順調にいけばあと丸3年というおり返し地点に来ました。これからの3年がどうなるかは、日々の過ごし方によると思いますが、毎日一日一日を満足いくようにしてゆきたいと思っています。


寮内恋愛の是非について       北村友一

 本来、このような文章が50周年記念誌に載る必然性は全くありませんが、寮に関する話題として他に自分に書けそうなものが思い付かなかったので、このタイトルで書かせて頂きました。
 早速本題に入らせて頂くと、私は寮内恋愛というものがあまり好きではありません。その第一の理由は、「寮生は皆兄弟」という概念と寮内恋愛が食い違う場合があるということです。なぜ「寮生は皆兄弟」と言えるのかと問われるとちょっと弱いのですが、同じ屋根の下に暮らす仲間として互いに仲良くやってゆくのは良いことに違いありません。しかし、仲良くやっていくことと恋愛感情を持つことは別であると私は思います。例えば、ある特定の寮生に恋愛感情を持つことにより、他の寮生との仲が悪くなるということがあり得ます。
 ここで、人を好きになるのは各人の自由ではないかという意見を持つ人もいると思われますが、全くそのとおりだと私も思います。寮内恋愛に口を挟む権利は誰にもありません。ただ、周りを見れば男も女もごまんといるのに、あえて寮内で恋愛を育む必要性が私には感じられません。
 第二の理由は、仮に自分が寮内恋愛を営んでいる場合、行動に注意を払う必要があるということです。例えば、好きなあの子の部屋に入り浸っていたりすると、部屋の前にスリッパが二足仲良く並んでいるのが他の人に目撃され、すぐに寮中に噂が広まってしまいます。また、外出する時も、五分くらいの時間差で別々に寮を出ても、食堂の住人に簡単に見透かされてしまいます。さらに、同部屋の住人に迷惑がかかるということもあり得ます。このように人の噂になることが続くと、最終的には大谷さんにまで知れ渡ることになってしまいます。尤も、これくらいのことは噂されている当人が気にしなければ良いことではあります。
 第三の理由は、別れた場合、当人同士が気まずくなるばかりでなく、周囲の寮生も気を遣うはめになるということです。まず、自分が恋愛を営んでいた当人である場合を考えてみると、大きく分けて自分がふった場合と自分がふられた場合の二つに分けられます。
 前者の場合は、自分は傷つくことはなく、周囲の人もよほどひどいふり方をしない限り、ふった人に対してツッコミを入れないので、ダメージは小さいと思われます。一方、後者の場合は、何とかして未練を断ち切ろうとしても、なかなか他のことを考えることができず、さらに、寮の中でふった人と顔を会わせるたびに鬱々とした気持ちになり、ダメージの回復にひどく時間がかかると予想されます。
 また、自分が第三者の立場である場合を考えてみると、うっかりしたことを言って当人を失意に追い込むのを避けるために、おそらく、あまり別れた理由などを詮索したりはしないでしょう。しかし、その一方で、詮索してみたいという野次馬根性もちょこっと芽生えることが予想され、この場合において第三者は自分の欲望を抑えることに苦しみます。さらに、ふられた人が寮内でも特に自分の身近な人である場合、真摯に話を聞く姿勢が求められます。
 第四の理由は、自分がモテないことによるひがみです。来る日も来る日も見せ付けられてはたまりません。そんな寮内恋愛カップルを尻目に、今日も私は夜のススキノへと向かうのでした…。

望嶽寮について       小川 宰司

 僕がこの寮に入ってからすでに2年と8ヶ月が過ぎようとしている。はじめてこの寮にやって来て目に入ったものは、あの「酒と涙の望嶽寮」という掛け軸であった。僕は絶句した。ああ親の意向ととはいえ、ずいぶんと厄介なところにやってきたものだと感じた。事実、その夜から恒例の新入寮生歓迎会といって酒を無理やり飲まされて潰された。飲まされた酒はひどくまずかったし、上の人間は飲め飲めうるさいし飲み会は長い、とはじめの印象は最悪だった。そんな日が毎日続き、おかげで入学式は二日酔いになるわ、研修旅行でも気分が悪いうちに終わってしまったりと散々だった記憶がある。研修旅行から戻ってくると、僕たち1年生に自分の部屋がようやく与えられ、本格的な寮生活が始まった。部屋は二人部屋とはいえ、意外と広く、その日はルームメイトと引越し作業をして一日を終えた。これで少しは楽になるだろうと思いきや、次の日からいつもどおりの生活が続き、僕の胃は働きつづけたのあった。
 と、今昔のことを振り返ると、自分はこの寮にきた当初と比べてずいぶん変わったものだと思う。実際、周りの先輩方からも入寮して来たころに比べてだいぶましになってきた、と言われたりもした。嬉しいことである。まあ確かにあのころはこの寮の理不尽な習慣をまったく受け入れることができず片っ端から拒絶していたのだが、まあ一年もここにいればそんな習慣にもなれてくる(鈍くなる?)もので、寝ているときに勝手に入ってくるいわゆる「襲撃」などをを除けば大体受け入れられるようになってきたと思う。しかし、この襲撃というのは実に嫌なものである。一度襲撃されるとそれが脳裏に焼きつき夢に出るようになるのだ。しかもご丁寧に妙にリアリティがあるためたちが悪い。上に乗られて耳元で「ねえ、起きてよぉー。」何て言われる夢を見てしまっては飛び起きずにはいられまい。あれだけは勘弁していただきたい。
 こうして、次第に変わっていった僕を認めてくれたのかどうかは定かではないが、99年度の寮祭の実行委員長を勤めさせていただくことになったのだが、今思い起こしてもあれは大変であった。寮祭のため講義や実習を休むことしばしば。解剖も休んでいたらいつの間にやら頭部が離断されていて驚いたりもした。また、車がないために自転車で西区の病院まで行ったりと、あのころはひどく活動的だったと思う。他にも苦労したことは山のようにあるのだが、1年生や同学年の多大な協力もあり、何とか寮祭を終えることができた。文句も言わずに作業をしてくれた1年生や、人数が少ないながらも頑張って企画を担当してくれた同学年にはとても感謝している。来年の2000年度には会計を務めることとなった。会計はお金が絡んでくるのでとても責任のある仕事ではあるが、そんな責務を任せていただきまったくもって迷、いやもとい、身の引き締まる思いである。これからもさまざまな仕事を任せられることがあるだろうが、みんなに期待に添えるような仕事っぷりをしたいものだ。

寮生活を振り返って
              関島 将史


Culture Shock (カルチャ−ショック)
「文化に接したときに受ける精神的な衝撃 」 岩波書店 広辞苑より

僕が札幌医大に合格して望嶽寮に入寮することを決めたのは1999年の3月下旬だった。
僕が想像していた寮と外見は180度違っていた。ピンクの洒落た建物の中はきれいで真面目そうな人達が沢山いた。僕がきた時には、僕より早く来た人達が具合悪そうにしていた。目が真っ赤な人もいた。忘れもしない4月3日のpm10:00僕たち1年生への歓迎会はとても×3嬉しかった。おそらく、1999年4月3日の夜、日本いや世界で一番熱かったのは望嶽寮であろう。この時カルチャ−ショックを体験できた。薄れゆく意識の中、僕は「今の日本にこんな所があるんだ。すっかり忘れてた。」そう思った 。
次の衝撃はあまりにも早すぎた。同部屋の「K」奴は現代人が忘れた何かを持っている。人は奇人と呼ぶかも知れないが、Kは貴人だ!僕はKと同じ部屋で色々な面で良かったと思っている。
7月になって、又やもやカルチャ−ショックを受けた。それは寮祭だ。こんなに面白いとは!ペイントして札幌市内を練り歩き、大通公園の墳水にDIVEしたのも面白かった。始めは少し戸惑ったがすぐに慣れた。入寮して、たった3ヶ月で3も衝撃を受けるとは。
普通の人なら、環境の変化についていけず、おかしくなってしまうかもしれない。しかし、我々寮生は普通と少し違う思考回路を持っているのかも知れない。だから、日々奇抜で面白いことが思い付き実行できるんだと思う。
僕は1年生の時は、30キロオ−バ−の自動車の様にがんばっていたと思う。途中で試験と言う名の警察に捕まりそうになり、もう一度1年かと思ったこともある。でも2年になって、これからは、先輩と言う立場で望嶽寮の歴史に記しを付けたい。大学に入って特に寮でたくさんのカルチャ−ショックを受けたが、それが僕にとって、とてもいい経験になったと思う。これからも頑張りたい今日この頃である。
P・S
2年からは赤切符(再試)に注意しないと・・・


望嶽寮について         正木智之

望嶽寮50周年おめでとうございます。この50年間の長きに渡り、たくさんの諸先生が寮を巣立ち行き、歴史を作り続けてきたことを思うと、寮生活いまだ2年目の私が、ここに列することをとても光栄に思います。
1年をかけ、寮生活とはどんなものかがやっと見えかけてきたところであり、諸先輩に比べまだまだ修行が足りなく、寮を語るには未熟者といった私ですので、ここは新入生体験記を書かせていただきたいと思います。
春、入寮期日間際に入寮した私は、その日の昼食をひと足先に入寮していた1年生と取りながら、なぜ、彼らがこんなにもやつれ果て、顔色が悪いのだろうかと平和な疑問を抱きつつも、幸せに昼食をほうばっておりました。しかし、その答えはその日の夜に、私の体に身にしみるほどよくわかりました。その日から毎日毎日、歓迎会、体のつらさに1日がとても長く感じました。あの試練を乗り越えられたことを思えばどんなにつらいことにぶつかっても、何でもできそうな気がします。また“新歓”に向けて、1年生が数日のうちに芸を考えなくてはならず、必死で悩んだ日々で、1年生同士は強く結束することができました。
7月、寮のメイン行事である寮祭を迎えるころには、先輩のおかげで恥ずかしさに臆することがなくなり、寮生魂にも磨きがかかり、“ガイコツパレード”では全身にペイントし、札幌の街中を歩き回り、“望嶽寮の存在”を札幌市民にアピールしました。その後大通り公園の噴水でペイントをおとし、意気揚々と寮に凱旋しました。パレードの時には、不思議と恥ずかしさはなくなり、ギャラリーが多いほど、寮生の存在を鼓舞する気持ちが高まり、誇らしささえ感じました。アルコールの助けも否めませんが、寮祭を動かす寮生全体の大きな勢いが私に力以上のものを与えてくれました。夕方から夜にかけては、寮の前の駐車場でパレードに使った山車を燃やしたり、 ビールかけをしたりし、時がたつのを忘れて心身ともに燃焼しました。まさに“祭”にふさわしい2日間の寮祭でした。
多くの寮の行事を通して、私個人ひと皮もふた皮もむけ、精神的にずいぶんとタフになりました。また、寮の共同生活をうまくやっていくためには、人とのコミュニケーションが大切であることを痛感しました。
思えばこの1年、先輩にはずいぶんお世話になりました。支笏湖にカヌーにつれていってもらい、カヌーがひっくり返って湖になげだされたことや、19歳の誕生日にススキノにつれていってもらったこと、ご飯をおごってもらったことなど数えきれなく、恵まれた1年生でした。
この春からは、寮生2年目になりました。いままでは、ただひたすら先輩に助けられ、育てられた私ですが、今度は、微力ながら寮の伝統を受け継ぐものとして、がんばっていきたいと思います。

寮の生活について       久慈みゆき

現在の札医大の学生寮は大学から徒歩で7〜8分のところにあるなかなかキレイな建物である。近くにコンビニエンスストアやスーパーもあり、飲み会など行われる際にはよく利用されている。飲み会といえば、寮に入る新入生は大学の入学式より数日前に寮での生活が始まり、新歓の飲み会を他の学生よりはやく体験する。そこで新入生同士お互いのことを知ることができ、また先輩方とも打ちとけることができる。平成11年度から保険医療学部も入寮できる様になり、部活内ぐらいでしか交流のない医学部と保健医療学部の交流の場ともなった。こうして新歓から始まり、行事のあるごとに行われる飲み会では様々なタイプの人と話をすることができ、また同級生や先輩後輩の意外な一面が発見されることもある。寮には門限もなく外出も自由なので、普段いるのかいないのかわからない様な人とも気軽に話しができるいい機会でもある。また、だいたい1カ月に1回の割合で行われる寮生全員参加の行事があり、そこでも様々な人との触れ合いがあり、色々な話をするうちに自分がまた違った視点で物事を見ることができるようになる。
行事には、花見、寮祭、バスハイク、スキーハイク、追いコンなどがある。このような行事には寮外生の参加も認められており、寮を出た先輩方や近くにある女子寮の人たちの姿もよく見かける。新歓、追いコンでは、学年ごとに何か1つ芸を披露するため、数日前から同学年同士で話し合いや練習が極秘で行われる。みんなを笑わせる芸を考え出すのは容易ではないが、4,5年生ぐらい上の学年になってくると、さすがに芸の質も高くなり、団結力も増す。団結力が増すのは、行事の時ばかりではなく試験の時もそうである。寮には、たくさんの先輩方が一緒に暮らしているため試験対策や試験情報が盛りだくさんである。また、同学年同士でも、励まし合ったり起こし合ったり教えあったりして試験勉強を乗り越えることができる。試験期間中に突然、先輩からコーヒーやドーナツの差し入れがくることもある。そんな感じで1年に2回の定期試験もなんとかパスしてまた1つ上の学年へとあがっていくのである。
寮生活といえば、門限や消灯時間が決められ、1つの部屋で数名が一緒に暮らすということで、自由がなく暮らしづらいと思いがちであるが、望嶽寮は学生が主体となって運営する自治寮であるため、拘束される時間はほとんどない。その分学生達にかかる責任は大きいが、それが団結へとつながったりする。また、2人部屋ではあるが、お互いにサークル活動やアルバイトに追われると、結構部屋で1人になる時間が多かったりする時もある。そうかと言って、不便に感じる点がないわけではないが、1人暮らしでは味わえない、様々な人とのつながりをもつことができ、同時にいろんな事を学ぶことができる。それが、生活費の安さや食事面のことよりも大きな、寮生活において得ることのできる最大の利点ではないかと思う。

寮に入って          伊早坂 舞

大学の教室にて、寮に住んでいる、と告げると、『大変でしょう、すごく飲むのでしょう?』と答えが返ってきた。確かに4月に寮に入り、何より驚いたのは飲み会であった。自己紹介と称して自分の名前を叫んだ時から、あたりが別世界に思えた。アルコールがまわって視点の定まらないまま、天井を見上げると、煙草の白い煙が流れている。たくさんの話し声、ガラスのぶつかる音が部屋に満ちていて、手の中の湯のみ茶碗には、琥珀色、時に透明の液体がゆれていたりする。まだ寮に入って1ヶ月余り、寮についてはまだ知らない事の方が遥かに多いが、4月初頭の飲み会の雰囲気には本当に驚いてしまった。
しかし、もう1つ驚いたのはコップを片手に先輩方が様々な話を聞かせてくれる事だ。少なくとも高校まで学年を越えて真剣に語り合う機会をあまり持たなかった私には新鮮であった。そしてこれが大学か、と妙に感動もした。先輩方が語ってくれる、主に医療についての話は、なぜこの道に進もうとするのか、この先如何にしたいのかを考える契機になったりする。又、こういう風にしたい、と指針を与えてくれることもある。今まで知らなかった医療の形、医療に限らず、様々の事についても色々な考え方を知る度に、充実した時を過ごさせてもらった、と思う。楽しいと思う。同じ1年生の間でも、何気なく話をしながら、もし寮にいなければ、特に他学部の方とは出会う機会も少なかったかも知れないと考えたら不思議な気分になった。ーーそうしているうちに酔いがまわってつと立ち上がると、『大丈夫?』と誰かが声をかけてくれた。実際、酔っておかしくなってしまった時は、たくさんの人が助けてくれた。

初めての集団生活でとまどう事も数多くある。が、今、ここでしか出来ない経験になると思う。生活習慣や、生活時間の違う人達が一緒に暮らしていくのだ。この先色々あるかもしれない。その時うまく乗り切れることもあるだろうし、うまくいかない時もあるだろうと思う。まだわからない事だらけである。当然の如く、少なくない不安もあるが、それで良いのかもしれないと思う。これから見ていく楽しみがある。そして色々な人達と良い関係を築いていける事が、きっと、将来大切になっていくのだろうとも思う。何より寮は、1人暮らしのような寂しさはない。この文章を書かせてもらう事になるほんの少し前に、寮での花見が終わった。そしてぽつりぽつりと7月初めにある寮祭の準備が始まっている。初めて準備から参加する寮の行事となりそうだ。写真をみせてもらったり説明を聞いたりしつつ、寮祭とはどういうものだろう、と、会合の片隅で考えている、この頃である。

望嶽寮ーそして伝説へー     浅井英嗣

はじめまして。今年の4月に入寮した医学部1年の浅井英嗣です。
今年は寮の50周年という一つの大きな節目にあたり、それを記念し寮の50年の歴史を綴る冊子に私のような新入生が携わることを大変光栄に思っています。
さて、現在の望嶽寮ですが、約10年前に新しく建て替えられ、サーモンピンクが基調の3階建ての建物になりましたが、先輩方が深く刻み残された伝統は、時代の流れに沿いながらその形を少しずつ変えて今も脈々といきており、私達新入生を驚きと戸惑い、それに恐怖をして手荒く迎えてくれました。まず驚いたのは飲み会ですが、それは後述するとして、感心したのは、寮長をはじめとする寮務委員会が寮内の自治に積極的にはたらきかけ、寮生がみんなそれに協力的であるということです。私は高校の時も寮に住んでいましたが、そこには望嶽寮にあるような愛寮心や、先輩と後輩といった縦のつながりもなく、廊下や便所は目もあてられないひどい状況だったからです。そして、そのような当り前のことを当り前にする習慣が伝統的に続いてきたことを誇りに思い、その伝統を受け継ぎ守っていこうと思いました。
次に、前述しましたが、驚いたのは新歓での飲み会でした。初めのうちはそのパワーに圧倒され、私の周りにいる新入生の中には「もう、やめたい」と言いはじめる者までいましたが、新歓も日を重ねる毎に、「なぜ先輩方はこんなにも酒を飲ませるのか」ということがわかってきて、それを理解すると、飲んでつぶれることが楽しくてしょうがありませんでした。
私は4月に寮にはいってきたばかりで、まだ寮祭も経験できていませんが、望嶽寮においてこの飲み会というものがもつ重みを新歓のときを通して実感しましたし、その伝統を背負った飲み会が現在も生き続けているおかげで、私の全く知らない大先輩方達がたまに寮に遊びに(飲みに)来てくださって、昔の寮生活はこうだった、などと聞くのはとても楽しいです。また特に、現在の医療に携わる人間として抱える種々の問題などのお話は、真摯に受け止め、考えさせられることがとても多いです。
このように、4月からの1ヵ月間を振り返っただけで、たくさんの新しいことを知り、学ぶことができたのだとわかります。私達は幸運なことに、寮生というだけで先輩、先生方の後輩ということになれ、寮の伝統を受け継ぎさらに次の代に伝えていくという役目を担うわけですが、それをしっかり伝えていくつもりです。先輩、先生方はお忙しいとは思いますが、50周年という記念すべきこの年に、また一度、二度、三度くらいは是非懐かしの我が家、望嶽寮に立ち寄って、そして酒をくみかわしながら熱いお話を聞かせてください。心よりお待ちしています。