「愛が見えた―音が聞えて」

 
人工内耳友の会「かたつむり」 代表  吉川伸子
 私の聴力が、もしかしたら人より劣っているのではないかと思ったのは、中学3年の頃でした。ごく希に聞き違いをする。時に、授業の終了のベルが鳴ったと錯覚する。この幻のベルは、今になって思えば、「耳鳴り」だったのだということがわかるのですが、その他は日常生活になんの不便もなく過ごしていました。

 でも、幼い頃に兄とケンカをすると、兄が私に「ツンボ」と言ったそうです。私には記憶はないのですが、母が最近になって教えてくれたことです。多分、兄にもその記憶はないと思いますが、もしかしたら、かなり幼い時から難聴が始まっていて、兄だけがわかっていたことなのかも知れません。

 19歳の時に「卵巣のう腫」の手術を受けたあとから、少し聞き違いの回数が増えたようでした。けれどその頃も不便は感じてはいませんでした。

 22歳で出産したあとから、急激に聴力の低下を覚えました。耳鳴りも強く現れ、とても不安になり、病院に行きましたが、詳しい説明もされないままに耳管の通気と、鼓膜マッサージ、耳鳴りの薬だけが処方されました。耳鳴りが幾分か弱まってきたので次第に聴力も回復しているのだろうと楽観しておりました。

 子供が二歳になり、育児のために休んでいた職場に復帰してみて驚きました。仕事をする上での会話が聞きとれないのです。まるで別世界に入ったような、国籍不明の言葉を聞いているような状態なのです。電話を受けることなど全くできません。こんなにも聴力が落ちていることにびっくりして、大学病院を受診しました。

 医師は、私の経過を聞き、聴力検査の結果を見ながら、しばらく無言でした。そして、「内耳性の難聴で、こんなに聴力が落ちて、時間もたち過ぎている。これ以上悪くなることがあっても、良くなることはないでしょう。」とおっしゃられました。治療方法はない。効果があるかどうかわからないが、補聴器に慣れるように。との言葉通り、補聴器を使っても、音が大きくなるだけで、「言葉」として理解することは困難でした。しかも、ますます聞こえは落ちていきました。一週間前にはなんとか理解できていたテレビのニュースが何を話しているのかわからない。買い物に行っても、代金がいくらなのか聞きとれない。昨日は聞こえていた玄関のチャイムが今日は聞こえない…という具合です。

 一番困ったことは、子供が熱を出したりして病院に行く時でした。診察の順番がきて呼ばれても分からないのです。熱でぐったりしている子供に「名前を呼ばれたら教えてね。」といい聞かせていました。あの頃はまだ20歳を過ぎたばかりで、「耳が聞こえません」という一言が、どうしても出せなかったのです。聞こえないということが、私にはとても恥ずかしいこととしか思えませんでした。聞こえていないのに聞こえたふりをすることで、あとで返って恥ずかしい思いをしたり、困ることが多いのに、自分から「聞こえません」ということができません。そして、新聞や本などを読んでいても、「難聴」とか「障害」とかいう文字がいち早く目につくともうダメでした。それ以上読み続ける気にはなれませんでした。自分を『障害者』と認めることがどうしてもできなかったのです。しかし、いつも、どうしてなのだろうか…と考えてみました。障害を持っている方はたくさんいる。障害を持っている方を見ても何も恥ずかしいこととは思ったこともない。障害を持ちながら、明るく生きている方々を尊敬さえしている。どうして自分を障害者と認めることができないのだろうか…と。これに対しての正しい答えは未だに悟れないでいますが、もしかしたら、どの部分の障害を持たれた方でも、私のように思うのかもしれません。聴力や視力の、コミュニケーションを断たれてしまう、しかも、その障害が人生の途中で起こったことで、すぐには障害の受容ができないのはむしろ当然なのかもしれないと思うようになりました。

 子供が完全に言葉を覚えるまで、私の耳がどうにか機能を保ってくれたことは私にとっては大きな幸いです。以後の子供の声を人工内耳の手術によって聞こえをとり戻すまで聞けませんでした。聴力を失った者にとって、切実に聞きたいと思うことは、自分にとって最愛の人の声ではないでしょうか。

 補聴器を使っても言葉どころか音さえもきくことができなくなり、なぜ?どうして?耳さえ聞こえたら…とどれだけの量の涙を流したことでしょうか。

 聞こえないことで精神が萎縮し、ついに仕事をやめ、療養していた時でした。

 1988年の2月のある日、札幌市中途難失聴者協会の高橋幸子会長よりファックスが送られてきました。それには、「今晩、札幌医科大学の耳鼻科の先生が福祉センターにいらして『人工内耳』というもののご説明がありますから、いらっしゃい」と書かれてありました。この一通のファックスが私の人生を 180度変えることになるとは思いもよりませんでした。はて?人工内耳って何だろう…そう思いながらセンターに来ました。その頃の私は生きているのか、死んでいるのかさえも自覚できなく、死ぬことに憧れ、生き続けることを無意味と考えている時でした。

 人工内耳の説明はそんな私に強いショックを与えて下さいました。初めて聞く「人工内耳」というもので聴力が戻る…東京などで既にこの手術により聞えを取り戻している方が何人かいらっしゃる…というお話の途中から私はもう、手術を終えて聞えをとり戻し、就職している自分を想像していたのです。「聞く」ことは生涯できないと諦め、死の誘惑に惑わされていた私が突然、聞えるようになって生き続けたいと願うようになりました。要約筆記のOHPを見詰めて5分もしないうちにです。何とかこの手術をして頂き、社会復帰したい…と先生にお願いしました。検査が行われ、手術適応とのご診断で1988年4月に手術をしていただきました。3週間後にコンピューターに私の聞えに合わせたプログラムが組み込まれ、スイッチが入れられました。とたんに、今まで全く音が聞えなかった耳に「言葉」が飛びこんできたのです。「よしかわさん。聞こえますか」「聞こえます」と答え、びっくりしました。自分の声が聞えたからです。再び私に問いかける先生の声が聞こえます。ああ、これは夢なのだな、聞きたいと思い続けた執念で今も夢をみているのだな。としきりに思ったのです。それにしても騒がしい。騒がしいなんて忘れていた感覚でした。あれほど聞きたいと思い続けたのに、実際に聞こえた時は信じられませんでした。先生の言葉を一言も聞きもらすまい…夢だとしても、さめてからも覚えていたい…などと思っていました。

 後で知ったことですが、初めて音が入った瞬間、たいていの人は涙を流して喜ぶそうです。私自身も、もし聞こえたら涙がとまらないだろうな。なんて思っていましたが、あまりの感動で信じられなく、無表情でその一瞬を迎えてしまい、先生方にとっては誠に張りあいのない患者だったことを後悔しています。

 1988年の5月の札幌の新緑がまぶしくてライラックの花の色さえも聞こえなかった時とは違う色に見えたものです。聞きとりのためのリハビリに一週間に一度医大に通うことがとても楽しみでした。リハビリ室は静かで先生のお話がはっきりと聞こえ、まるで健聴者になったかのような錯覚を覚えることもありました。そして、念願であった社会復帰、すなわち再就職することができました。人工内耳は今、私の新しい耳としてなくてはならない身体の一部です。

 現在使用して4年目になりました。4年間を通してどの程度聞こえるか、使用の条件など述べさせていただきます。

 聞こえについては、結論を先に述べますと、健聴者にはなれません。しかし、全く聞こえなかった日々を振りかえりますと、こんなにも聞こえるようになった…というのが私の実感です。幾つかの条件が満たされていれば、ほとんど普通に会話が可能です。

 条件 ■静かな所             (つまり騒々しくないところ)
    ■相手と正面に向き合う       (唇の動きを見れる状態)
    ■少しゆっくり、はっきり話して頂く (口の動きの少ない人は苦手)
    ■突然話題が変わらない

 だいたい以上のことですが、聞きやすいタイプの声、聞きにくいタイプの声もありすべての人と同じ条件で会話できるとは限りません。私の場合は、女性のソプラノの声、幼児のかん高い声、早口の人は苦手ですし、初対面の方との会話はちょっとその方の話し方のリズムをつかむまで困難な時もあります。また、サングラスをかけている方は、唇の動きが見えても何となくピンときません。銀行や病院などの受付けでマイクで呼ばれる時もかなり注意していないと聞き逃すことがあります。ひとつの言葉が聞きとれなくて次の言葉が理解できない時などちょっと身振りで示していただくと理解が早くなります。こうして考えてみますと、人工内耳だけで言葉を聞いているのではなく、全身で聞いていると言っても過言ではないと思っています。

 電話は、別に付属品を使うと、慣れた人との簡単な用件の会話は可能です。相手が誰であるか分からなければ困難です。相手が分かればだいたいの会話の内容を推理できますから可能になる訳です。しかし、電話はかなり練習を積み重ねることが必要です。個人差もありますが、私がどうにか電話ができるようになるまでに3年かかりました。職場の電話は受けていません。音楽は、健聴だった時に覚えていた歌であれば聞き分けることはできますが、今の新しい歌は覚えることができません。リズムや音の高い低いはわかりますが、メロディとしては困難です。家庭での生活音はほとんど大丈夫です。水道の蛇口からポタポタ漏れている音もわかります。テレビは一般に早口ですからあまり理解できませんが、ニュースでアナウンサーの口元が見える時や、字幕が一部でも出ると、そこから連想して聞こえることもあります。

 今、述べましたことはすべてコンピューターを装着している時の状態です。とりはずしますと全く何も聞こえません。「人工内耳」は耳を治すのではなくて、聞くための補助的手段です。ですから、いかに自分に合った方法で使いこなすかということが大切だと思います。同じ手術をした仲間とは思えないほど、とてもよく聞こえる方もおりますし、どうも言葉として聞こえない。うるさいだけ…ということで使用されていない仲間もいます。失聴の原因や病気の程度などで個人差が出るのだと思いますが、人と比較して考えるよりも、自分の聞こえなかった時と比較する方が賢明な考え方と私は思います。

 健聴、難聴、失聴、と体験し、本来ならばこの失聴のままで生涯を終えなければならなかった私が、再び難聴者としての生活ができるようになりましたことは、たくさんの方々のお陰と思います。医学と科学の結集で作られました人工内耳は、失聴した者に再び音を…とどれだけの医学者と科学者が研究されたことでしょうか。この人々の愛がなければ、聞こえない者は聞こえないままで生きていかねばならなかったはずです。現在日本で手術を受けた約 140名、今後手術を受け、音をとり戻す仲間は、戻ったその音には、限りない多くの人々の愛の結晶で聞こえているということに必ず思い当たるはずです。

 失聴してよかった…などとは決して思いませんが、失聴したことにより、失ったものの何倍ものすばらしい出会いをいただきました。この出会いを大切に、精一杯生きて行きたく思います。