第5章-胸部-
5.1 胸腔へ
5.1.1 開胸 (図145,148--160,162,163)

腹壁筋の解剖はすでに終わっていた方がいい(4.2)。鎖骨は切断、腕神経叢が剖出され、前鋸筋と長胸神経が確認され、できれば前鋸筋が肋骨からはがれていること(3.2.3)。

手術として行なう開胸術が肋間を拡張していくのとは異なり、解剖学実習では胸郭前部を大きく除去して視野を広げる。自分の腋窩に手を入れて、広背筋が作るヒダに触れてみる。この位置に降ろしたタテの線を後腋窩線という。ライヘの後腋窩線のレベルで、第1肋骨から第8肋骨付近まで、肋骨剪刀という特殊なハサミを用いて切断する。胸膜に包まれたが深部にある。これを損傷しないように、軟部を奥に押込みながら作業を進める。前鋸筋の残りや肋間筋は、メスを用いて切断する。第1肋骨を切断する時は、腕神経叢を損傷しないように注意する。第1-2肋骨に付着する()斜角筋を肋骨から剥がす。胸鎖関節の観察がまだなら、胸鎖関節の関節円板を確認する。

Latissimus dorsi muscle広背筋
Intercostal muscles肋間筋
Rib(s)肋骨
LungLunge, Pulmo
Scalene muscles斜角筋
Sternoclavicular joint胸鎖関節

ここでトラカール針を用いて胸腔穿刺を模してみる。現場ではもちろん体表から刺す。あらかじめ、肋間の上下どこに血管・神経が走るか、その配列はどうか復習する(図233)。胸腔穿刺は胸水を吸引除去するルーチンの手技だが、不用意な穿刺で肋間動静脈の損傷を起こすといった事故も少なくない(1.3)。なお、すでに IVHの刺入実習(3.2.1)が行なわれていれば、開胸時に針が抜けないように注意する。

肋骨の切断を終えたら、胸骨上端から慎重にメスを入れて胸骨と深部を引き離す。メスの刃が後方を向くと、人体血管系の要衝である上縦隔を損傷してしまう。困ったらスタッフに手伝ってもらう。ある程度剥がしたら胸骨後方に指を入れ、さらに手を入れ、胸骨を前方に浮かしていく。胸骨柄と胸骨体の境界の段を胸骨角という。肋骨の切断端で負傷しないように注意する。内胸動静脈(図162)があまり緊張しないうちに、頚部側から前胸壁に向けて立上がった5-10cm程度の部位で切断する。肋骨を深部から剥離し、前胸壁を下方に大きく反転する。無理すると深部を損傷したり、不要な部位で下位肋骨が折れてしまう。線維性心膜胸骨をつなぐ丈夫な結合組織はメスで切断する。必要に応じて第9-12肋骨も肋骨剪刀で切断する。以上の過程で、壁側胸膜(図160)がある程度破損するのはやむをえない。胸膜炎 pleuritis(肺癌、結核などはもとよりカゼをきっかけとした炎症でも、胸水が貯留する)による癒着は、高齢者では大なり小なり認められる。のり状の多量の胸水があれば供覧するので報告する。うち続く高熱に患者の苦痛と医師の疲労が実感される。

Intercostal artery/vein肋間動/静脈
Sternum胸骨
Sternal angle胸骨角
Superior mediastinum上縦隔
Internal thoracic artery/vein内胸動/静脈
Pericardium fibrosum線維性心膜
Parietal pleura壁側胸膜


■付図(胸腔穿刺)



■付図(開胸)



5.1.2 横隔膜の前部 (図162,233,245,362)

肋骨弓と胸骨剣状突起に付く横隔膜の起始が見えたら、いったん開胸作業をやめて、全員で横隔膜を観察する(図162,233)。素人には横隔膜が水平に位置するという誤解があるが、筋性部分はむしろタテ方向に走る(図362)。タテ方向の筋束は後体壁にもあり、後日解剖する(6.4.2)。

横隔膜と他の筋の位置関係を確認する。腹直筋の肋骨起始は胸壁の前面にあるから横隔膜とは離れている。反転した前胸壁の内面に胸横筋があり、下方は腹壁で観察した腹横筋と連続している。肋骨弓では、胸横筋腹横筋横隔膜の起始が噛み合っている(図xxx)。胸部と腹部を区切りたい横隔膜と、胸部から腹部まで連続したい横筋が、いかに肋骨弓を住み分けているか理解する。横隔膜の胸骨部・肋骨部の間は、解剖では胸肋三角と呼ばれ、上腹壁動静脈が通過する。臨床では左をラーレー孔 Larrey、右をモルガニ孔 Morgagni と呼び、腹部消化管が上方に脱出してくる。小児外科で緊急を要する横隔膜ヘルニアの1つである。左右ではモルガニ孔ヘルニアの方が多い。内胸動脈は上腹壁動脈筋横隔動脈に分れる。

反転した胸壁は、必要に応じて横隔膜起始を剥がし、本体から完全にはずしても差し支えないが、急ぐことはない。前胸壁自体の解剖は 4.2 を参照する。後で再び胸壁を乗せて復元し、胸部内臓との位置関係を確認するので、肋骨を追加切除してはいけない。肋間と胸部内臓の位置関係がずれるからである。

Diaphragm横隔膜
Costal arch肋骨弓
Sternum胸骨
Xiphoid process剣状突起
Rectus abdominis muscle腹直筋
Transversus thoracis muscles胸横筋
Transversus abdominis muscles腹横筋
Superior epigastric artery/vein上腹壁動/静脈
*Musculophrenic artery筋横隔動脈


5.1.3 頚胸移行部と上縦隔 (図187,189,190,192,219,234,242,281,703,710,711,715--717)

開胸後、最初に胸部内臓のオリエンテーションをつける。左右の肺を包む壁側胸膜は残っているだろうか。損傷がひどければ、他班の保存のいいライヘで確認する。心嚢に入ったままで心臓に触れる。下頚部の大血管を下方にたどって上縦隔を触診する。さらに大血管の配置を知るため、フィンガーディセクション(指先による解剖)を行なう。最初は神経を切らないように慎重に、次第に大胆に次の構造を順に確認する。

Trachea気管
Bronchus気管支
Aortic arch大動脈弓
Brachiocephalic trunk腕頭動脈
Left common carotid artery左総頚動脈
Left subclavian artery左鎖骨下動脈
Root of the lung肺根Radix pulmonis
Esophagus食道
Vertebral column脊柱

各縦隔の区分を知識として整理しておく(図187,189,190,192)。

縦隔胸腔-胸膜腔上縦隔胸骨角より上方、上縁は鎖骨と第1肋骨、下縁は横隔膜。各縦隔胸骨角より下方にある。通常は胸骨柄と胸骨体の境(胸骨角)が第2肋骨ないし第4胸椎体に対応する。前縦隔は心嚢より前方の薄い部分で、胸腺脂肪体内胸動脈などがある。中縦隔心嚢(心臓心膜)で、心嚢より後方が後縦隔だが、気管下部と主気管支周囲のリンパ節を中縦隔リンパ節と呼ぶことがある。

頚部の解剖ですでに、リンパ節は見つけて除去しているだろうか(5.4.2)。静脈角付近のリンパ節を除去しながら()、胸管を探す(図242,715)。ここは無理しないで、先に進んでいる班を参考にする。胸管だけは最後まで温存する。

Superior/Anterior/Posterior mediastinum上/前/後縦隔
Sternal angle胸骨角
Internal thoracic artery/vein内胸動脈/静脈
Venous angle静脈角
Thoracic duct胸管

横隔神経を頚部で(図703,711)再確認し、下方に追及して心膜の外面まで(図190)たどる。開胸の際に切断した内胸動脈を確認して根部まで剖出しておく。内胸動脈枝の心膜横隔動脈は、心膜の栄養血管で横隔神経に伴走する。内胸動脈内胸静脈は頚部側では伴走せずに離れていく。内胸動静脈に沿う前縦隔リンパ節(ここでは内胸リンパ節群)は乳癌取扱い規約上で有名だ。内胸動静脈間と腕頭静脈角で、特に発達している。観察しながらリンパ節を除去していく。前胸壁では、しばしば静脈が内胸動脈の両側にある。

Phrenic nerve横隔神経
Pericardium心膜
*Pericardiacophrenic artery心膜横隔動脈
Anterior mediastinal lymph nodes前縦隔リンパ節

IVH の実習で針がどこに刺さったかを確認してみよう。胸膜を破って医原性の気胸を起こしてはいないか。胸膜に傷が付き、大気が流入すると胸膜腔の陰圧が失われ、肺はそれ自体の弾性によって収縮して呼吸障害が生じる。

総頚動脈内頚静脈を下方にたどり、上縦隔の大血管を剖出する。浅側にある左右の腕頭静脈が最初に剖出される(図710)。腕頭静脈の血管周囲にある血管鞘を除去する。この付近のあいまいだが便利な表現として頚胸移行部という用語がある。胸腺脂肪体胸腺らしい形を留めているライヘでは、他班にも紹介する。あらかじめ胎児の胸腺を示説標本で観察しておく(図219,xxx,281)。胸腺脂肪体は完全に除去し、腕頭静脈を浮して深側の動脈を剖出していく。甲状腺に出入りする血管を再確認しておく(図715,711)。下甲状腺静脈に伴走する動脈があれば最下甲状腺動脈 A.thyroidea ima の可能性がある()。甲状腺の血管は変異に富むので複数の班で観察する。左腕頭静脈を正中線付近で切断して左右に反転すれば、さらに深部の剖出が進む。太い気管支縦隔リンパ本幹が見つかるかも知れない。

健康体でも縦隔リンパ節はよく発達している。呼吸を通していつも抗原刺激を受けているためであろう。黒いリンパ節はアンテラ Anthracosis と称される。リンパ節内のマクロファージが粉塵を溜め込んでいる。アンテラの量と位置は、肺からのリンパ流を示唆する。肺癌・食道癌など臨床では、これら縦隔リンパ節の位置の認識が重要である。実習の進行状況を見てリンパ節実習を行う。リンパ節を除く際に、左右反回神経を損傷しないようにする。反回神経麻痺の大半は、癌手術のリンパ節郭清による医原性である。

胸膜に包まれた肺の内側で心嚢との間にも脂肪がたくさんある。これを除去しながら、横隔神経を裸にする。上大静脈も後方まで剖出が進み、上大静脈が浮いてそこに注ぐ奇静脈弓が確認できる(図187,234)。上縦隔の深側に腕頭動脈が見えてくる(図193)。

Thymus胸腺
Thyroid gland甲状腺
Inferior thyroid vein下甲状腺静脈
Recurrent laryngeal nerve反回神経
Superior vena cava上大静脈
Azygos vein奇静脈
Azygos arch奇静脈弓


Back to index