「有毛細胞よ、よみがえれ!」


[ACITA]運営委員会
 我々失聴者は失聴したときに、医師から「あなたの耳はもう聴こえるようにはならないでしょう。」と言われた。この言葉は、残念ながら正しい。しかし、確かに10年前までは治療の可能性さえもないと考えられていたが、1987年に重要な発見がなされて以来、聴力回復治療の可能性を追求した研究が活発に行われるようになっている。
 耳に入って来た音は鼓膜を振動させ、その振動が耳小骨を経て蝸牛に伝えられる。さらに、蝸牛から聴神経へと信号が送られることにより脳に伝えられ、音が感知される(図1)。この音の伝達経路のうち、蝸牛で音を神経へ伝える役目をする「有毛細胞」という細胞が失われることが失聴の一般的な原因である。この有毛細胞の代役をしているのが人工内耳である。もし、この有毛細胞が再生されれば、失聴者は音を取り戻すことができる。

図1 音の聞こえるしくみ

 50年以上も前から、魚類の有毛細胞は再生される場合のあることが知られていたが、ほ乳類、鳥類などでは有毛細胞は再生しないと考えられていた。すなわち失われた聴力は二度と取り戻すことはできない。しかし、1987年に、生まれたての鶏の有毛細胞が再生されることが偶然に発見された。この大発見の後、有毛細胞再生に関する研究が活発に行われるようになっている。成果として、有毛細胞再生のメカニズムがほぼ明らかになった(図2)。このメカニズムを札幌医科大学耳鼻咽喉科助教授・氷見徹夫先生に解説していただいた。


 『みなさんにわかっていただくために「スーパーマリオ」(注1)に例えて説明します。
 有毛細胞は支持細胞という細胞の上に並んでいます。マリオが座布団に座っているところを想像してみてください。有毛細胞と支持細胞の関係はこのマリオと座布団の関係と同じです。つまりマリオは「有毛細胞」で座布団が「支持細胞」となるわけです。蝸牛の中にはたくさんの座布団が並んでいて、その上にいろいろな音を出す楽器を持ったマリオが座っているという構造になっています。
 マリオが敵にやっつけられると、当然その音を出すことができなくなるわけで、ここで難聴が発生します。つまり有毛細胞がなければ音を脳に伝えられなくなるわけです。
 ところが、ある条件下では、マリオがやられてしまった後に、座布団が変身し始めるのです。任天堂もこれには気がつかなかったようで、座布団は見事に元のマリオに変身し、再び楽器を鳴らすことができるのです。めでたしめでたし。
 つまり、一言で言えば「支持細胞がある信号を受けると、細胞分裂を始め、有毛細胞に変化して、聴覚機能が再生される」というわけです。』


図2 有毛細胞再生のメカニズム

 現在までに、鳥類は生まれたてに限らず有毛細胞の再生力を持つことがわかっている。鳥類は大きな音、薬剤により有毛細胞が失われても再生できる。しかし、ヒトは再生できない。したがって失聴はなおらない。この差を埋めるには、鳥類の有毛細胞再生のメカニズムの解明が必要である。氷見先生にご説明いただいたように、支持細胞(…これは一般的に有毛細胞のように失われず残存している)が有毛細胞へと変身することがわかっている。これをヒトの難聴治療に結びつけるには、「何が支持細胞を有毛細胞に変身させる引き金になるのか」を解明しなければならない。
 1996年10月の医学雑誌に、この一端を解明する論文が掲載された(注2)。細胞内では多くの物質が情報伝達に用いられているが、そのうちの一つの「物質」が増えると、支持細胞から有毛細胞へと変身する過程が促進される可能性が述べられている。さらに、この細胞内の「物質」を増加させることが知られている薬剤を蝸牛に与えると、有毛細胞への変身が促進された。この報告は今後の事実検証も必要であり、たとえ事実であったとしても、ヒトへの応用へ向けては、まだまださらなる多くの研究を必要とするが、「薬→有毛細胞再生→聴力回復」の可能性を我々に期待させる。
 科学の進歩を予想することは難しく、ヒトの聴力回復が可能になるのは、もしかしたら5年後、10年後といった近い将来かもしれないし、100年たっても夢であるかもしれない。現時点で音を取り戻すには、人工内耳以外にはないことは確かである。しかし、人工内耳手術を受けた耳は、たとえ有毛細胞再生による聴力回復を実現する薬が開発されたとしても、もとにはもどらないことも心のすみにとどめておきたい。

(注1)任天堂の大ヒットテレビゲームの中の登場人物。
(注2)参考文献:Nature Medicine, 1996, 2 (10), 1136-1139.


人工内耳友の会[ACITA]会報第36号掲載記事
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