札幌医科大学医学部

分子医学研究部門

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***このページは2001年3月16日に更新しました***

遺伝子治療はどこまで進んでいるのか  

濱田洋文 2001年3月16日

 

遺伝子治療の臨床研究が欧米を中心として活発に試みられてきた。現時点ではすでに500以上のプロトコールが登録されている。中でもがんに対する遺伝子治療のプロトコールは多く、最も積極的に研究されている標的疾患である。わが国でもいくつかの臨床研究がスタートし、その結果が注目されている。ここでは遺伝子治療を巡るいくつかの重要な課題を論じてみたい。

 まず第一に取り上げなければならない課題が、ベクターの副作用の問題である。がんに対する遺伝子治療のベクターとして最も期待されていたのがアデノウイルスベクターであった。ところが1999年の秋に、ペンシルバニア大学のWilsonらのグループによる先天性代謝疾患の遺伝子治療臨床研究の経過中、大量のアデノウイルスの全身投与によって一人の男性患者が急性の心肺肝不全によって死亡するという事故が起こった。アデノウイルスによる急性心肺不全の細胞・分子レベルでの病因は今のところ明らかではない。記載された症状は一見アナフィラキシー症状のように見えるが、1x1013個以上の大量のアデノウイルスを全身投与した患者の一部のみに起こってくることから、少量の抗原でも引き起こされる免疫学的過敏反応とは病態が異なっている。あくまで想像による仮説であるが、私は以下のようなメカニズムも考えられるのではないかと思う。すなわち、大量のアデノウイルスが全身を巡っているうちに、その蛋白成分のいずれかが、本来のアデノウイルスの受容体とは異なった分子と弱いアフィニティーで結合する。アフィニティーが弱いので少量では薬理効果を現さず、大量のウイルス投与で初めてこの受容体を介する急性反応のシグナルが伝達される。一旦シグナルが顕在化すると、サイトカイン分泌などのキャスケードを通じてポジティブ・フィードバックの悪循環となり急性心肺肝不全へとつながったのではないか。同程度(1x1013個以上の大量)のアデノウイルスを頭頸部がんなどの腫瘍局所に投与した場合には、特に重篤な副作用は生じなかったことが報告されている。このことを考えると、動脈ないし静脈投与による全身にウイルスが投与された場合に限って、上に述べたような重篤な副作用が生じるものと考えられる。これだけ多くのウイルスが全身の循環の中に入り込むということは、人類の進化の過程で未だかつてあり得なかったことであり、このような臨床経験を通じて初めて得た貴重な知見であろう。詳しい病態メカニズムの解明が何よりも重要である。

第2番目に、遺伝子治療の臨床研究を行う研究者の側の倫理面での問題点を取り上げてみたい。ペンシルバニア大での上記死亡例はアメリカで大きな社会的問題となった。当時アメリカでは遺伝子治療の臨床研究の審査手順をできるだけ簡略化して迅速に研究を進めようという方向にあった。ところが、この死亡例をきっかけとして、アメリカ国内の遺伝子治療の臨床研究全般に関する調査が進められ、その過程で研究者サイドの倫理面での問題点が浮かび上がってきた。臨床研究の実施状況がプロトコールに完全に忠実ではなかったことが問題となった。同様の問題は、閉塞性動脈硬化症の遺伝子治療を進めていたタフツ大学のIsnerらのグループにも指摘され、ペンシルバニア大のWilsonらに特殊な問題ではないことも明らかとなった。

特に、重篤な副作用が見られた場合のFDAなどへの届け出義務に関して、情報をどこまで迅速に公開する必要があるかという点を含めて論議の的となった。今年のはじめには米国NIHの遺伝子治療臨床研究のガイドラインの改正補足案が提案されている。この中では、起こった重篤な副作用と思われる出来事を迅速にすべてFDAに報告することを義務づけようとしている。また、今までは非公開であった副作用のFDAへの報告内容を、原則的に公開しようとしている。このガイドライン改正案に示された情報開示の方向性は、原則的には正しい流れであることは間違いなく、アメリカ遺伝子治療学会も大筋では賛成を表明している。しかし、実施に当たっては多くの問題点を含んでいる。たとえば、副作用の病態メカニズム、治療の詳細との関連性が充分に明確にされないうちに、副作用の事実報告が先行すれば、同じプロトコールにエントリーされている患者ないし潜在的患者に、いたずらに不安を与え、臨床研究の遂行を著しく困難なものにしてしまう可能性がある。臨床治療研究の主体となるベンチャー企業や製薬会社の側から見ると、迅速な副作用情報公開は、一方では断片的情報として市場に伝わり、市場の大きな不安定要因となり得る。これまで、アメリカでのバイオベンチャー企業群は医学研究ひいてはアメリカ経済を力強く牽引してきた。この活力を阻害しないという見地からも、ガイドラインの改正に当たっては、充分なディスカッションが必要となるであろう。

 第3番目に、がん治療における本質的な課題として「がんの分子標的とその多様性」を挙げたい。がんの遺伝子治療を考える場合に最も大切になってくるのが、がんの標的化、すなわち腫瘍細胞だけを周囲の正常細胞とどうやって区別するかという課題である。たとえばアポトーシスの機序でがん細胞を殺す治療法を考える。たとえば、caspase-8の遺伝子を高発現させると放射線との併用で非常に効果的に腫瘍細胞を殺すことができる。P53遺伝子導入によるアポトーシス誘導と同様に、少なくとも in vitro では、例外なくどんな腫瘍細胞でも殺すことができる。ところが、多くのアポトーシスの機序は腫瘍細胞と正常細胞とで同じである。そこで、腫瘍特異的な遺伝子発現のできる「標的化攻撃ベクター」を開発する必要がある。また、用いるアポトーシス誘導遺伝子もできるだけその腫瘍に特異的な遺伝子異常(p53、ras、erbB2、bcr-ablなど)を標的としたい。そうやって、有効な治療法を開発してゆくと、今度は問題になってくるのが、腫瘍の多様性(heterogeneity)であろう。腫瘍を標的化すればどうしても標的化から免れる耐性細胞を選んでしまう結果になりやすい。がん治療の」研究をを進める場合、どうしてもこの多様性と正面から戦うことになる。非常に手強い相手である。

 


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