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標本館だより


 第51号(2023年 3月発行)

人間工学上の最大の傑作-足、と二足歩行

標本館運営委員 渡邉 耕太
札幌医科大学 理学療法学第二講座 教授

 筆者は整形外科医です。整形外科の対象部位は骨、軟骨、筋、靭帯、神経など運動器を構成する全ての組織です。すなわち、首から下の内臓器を除いた全てと言ってもよいかと思います。このように対象範囲は広いのですが、ある程度経験年数を積むと、専門領域を持つことが多いです。筆者の専門の一つは足です。通常のヒトの移動の際には足が地面と接する唯一の器官で、この二足歩行がヒトであることを特徴づけています。直立二足歩行により上肢は自由となって道具を使い、脳を発達させました。ところで、我々の祖先はいつから二足歩行をするようになったのでしょうか?
 2021年4月から標本館運営委員になったことをきっかけに、久しぶりに標本館を見て回りました。久しぶりとは、入学時以来のことです。確か本学への入学時には新1年生は全員で標本館を見学したように記憶しております。その時には多様な展示物に只々驚いたというのが率直な感想でした。今回は展示された断面標本や種々の疾患の標本、医療機器や歴史的資料など、医師・研究者としての興味と知識を持ってまた違った驚きを感じました。その中でも印象に残ったのはルーシーの標本です。“ルーシー”と聞いてピンときたなら古人類学やヒトの進化に興味のある方と思います。これはエチオピアで発見された318万年前のアウストラロピテクス・アファレンシス(アファール猿人)の化石人骨です(下図)。全身の約40%の骨が300万年以上を経たのちに見つかるなど奇跡に近いと思います。発見された晩(1974年)に発掘チームが祝杯を挙げながらビートルズの曲を聴いていた際に、「Lucy in the Sky with Diamonds」が流れ、この化石にルーシーと名づけたというエピソードがあります。
 さて、展示されている標本・ルーシーについてですが、専門の興味から足の骨にまず目が行きます。なんと、距骨があったのです。距骨は足関節を構成する骨で、上方と内側は脛骨と、外側は腓骨と、下方は踵骨と、前方は舟状骨と関節面を形成している複雑な形をした骨です。「美しい!」・・・骨や関節を見て美しいと感じる人はあまりいないかもしれませんが、整形外科医にはけっこういると思います。距骨は特殊な骨で、表面積の60%以上が軟骨に覆われており、筋腱が付着していないなどの特徴から、骨軟骨損傷や骨壊死など特殊な病態が発生します。その骨が300万年後に我々の目の前に現れ、しかも現生人類とほぼ同じ形状-二足歩行をしていた足の構造です。ルーシーの発見によって、この時代から人類は二足歩行をしていたことが裏付けられました。さらに、1978年には375万年前の足跡化石がタンザニアで発見されました。土踏まずがあり、母趾が他趾と平行に並びしかも太いという現生人類の特徴を備えていました。足という器官はアーチ構造により体重を支える剛性と推進力を持たせ、多くの骨(28個)の組み合わせで地面の凸凹にも対処し、そしてそれらをつなぐ靭帯や筋肉で支持性と柔軟性という相反する機能を発揮する・・・ルネッサンス時代の最も偉大な芸術家の一人であるレオナルド・ダ・ヴィンチは「足は人間工学上の最大の傑作であり、最高の芸術作品である」と述べているのにも深く納得できます。
 現在我々は本学が持つリソースを利用し、ご献体を用いた解剖やバイオメカニクス研究、患者さんから得られた足のCT・MRI画像などから、疾患の特徴や個別の解剖学的違いを解明し、それを理学療法や手術治療に応用することを目指しています。足にあって手にはなく、ヒトのみで特に発達しているという興味深い筋肉があります。それは足底方形筋で、個々人による違い、解剖学的バリエーションに富んでいます。解剖研究によって教科書にほとんど書かれていない構造を明らかにし、新たな足の運動療法の開発を進めています。足にはまだわからないことや不思議なことが眠っていると思います。
 最近「直立二足歩行の人類史」(ジェレミー・デシルバ著、文藝春秋)という本を読みました。冒頭に挙げた、いつから二足歩行をするようになったのか?についての新説が書かれていました。現生人類に至る進化過程のイラストで思い浮かぶのは、チンパンジーのような姿の人類の祖先が四つ足で歩いているところから徐々に姿勢が直立していき、二足歩行に移行するという図ではないでしょうか。本書では古人類学者の筆者(足が専門)が、現在まで発掘された化石から得られた知見や、二足歩行のために必要な解剖学的特徴とその生活への影響、人類の起源の地アフリカから地球全体へ広がった過程などをわかりやすく解説しています。霊長類の中でヒトに最も近いのはチンパンジーやゴリラなどの類人猿です。約600万年前までにヒトの系統はそれら類人猿の系統と別れたといわれています。それ以前の両者の共通祖先を調べることで二足歩行の起源がわかるはずです。そして、2016年に一つの証拠が発見されました。しかも発見場所はアフリカではなくヨーロッパでした。1,100万年前の化石類人猿、ダヌビウス・グッゲンモシは、直立二足歩行をしていたとの報告が出たのです(Böhme M, et al. Nature 2019)。他の研究者からも、二足歩行をしていたと考えられる同時期のヨーロッパの化石類人猿が報告されています。もしかしたら、この時期のヨーロッパには直立二足歩行する類人猿がたくさんいて、一部がアフリカに移り人類へと進化していったのかもしれません。要するに、ヒトと類人猿の共通祖先は二足歩行をしており、その中の一系統が二足歩行を継続させてヒトに進化し、他の系統ではナックルウォーク(手指の背面を地面につく歩き方)を発達させてチンパンジーやゴリラに進化した・・・広く認識されている人類の進化過程のイラストとは逆向きの考え方です。
 ルーシーは人類共通の先祖(母)かもしれません。アメリカのオバマ氏が大統領時代にエチオピアを訪問した際、ルーシーを見学しています。その夜の晩餐会で次のように述べたそうです。「エチオピア人もアメリカ人も、世界中のあらゆる人々が人類という一つの環の一部なのだと気づかされます。ルーシーを記述した教授の一人がいみじくも指摘しているように、世界中の苦難や対立や不幸や暴力の多くは、私たちがその事実を忘れているために起きているのです。私たちは、私たちみんなが共有している基本的なつながりを見るのとは逆に、表面的な違いを見てしまっています。(前述の書籍から抜粋)」 
 この原稿は年の瀬も押し迫った12月に執筆しています。今年はウクライナでの戦争、エネルギー危機、食糧危機など世界の平和を脅かす多くの出来事がありました。足への興味と標本館の展示物から、世界の平和にまで思いをはせることになりましたが、ぜひ標本館に足を運んでみてください。世界の指導者達にも見てほしいくらいです.標本館は本学が持つ偉大なリソースの一つと思います。展示品は更新されており、ルーシーは昨年度新たに加わりました。特に入学時以来という方にお勧めです。勉強になるばかりでなく、臨床や研究のヒントも得られるかもしれません。

 

 

 


 

 

 

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